【詩】「死にゆく者への祈り」 [詩]
「死にゆく者への祈り」
死は、皮肉なことにその死がまだ起こってない側では、理解することができないのだ。ひとは、愛する者の死の前で、騒ぐことしかできない。不謹慎かもしれないが、死にゆく者を前にして、発熱し、浮かれたように、興奮して過ごすことしかできない。そこに、まだ死はやってきてないからだ。だが、いったん「死が起こる」と、人は、不理解に苦しむ。目の前の肉体が壊れ、魂と分離してしまったことが。社会制度は死を教える。しかし、人の頭は、死を理解できない。
トーマス・マンの『魔の山』には、まだ死んでいない少女を前にして、牧師が、「死にゆく者への祈り」をあげる場面がある。暴れる少女を死へ届けるために、牧師は祈祷を続ける──。キリスト教の牧師や神父は、聖書の中から、「死にゆく者への祈り」にふさわしい箇所を選んで祈る。
むこう側へ。
いざ行ってしまうと、もう興奮や発熱、喧噪はあとかたもなくて、ただ、不理解だけがそこにある。なぜ、肉体は消滅したか? これがどうしても理解できないのだ。
それを、ひとは、愛と呼んできたように思う。
その不理解は、自分が「むこう側へ」行くときまで続く。
死にゆく者よ、われもまた、永遠に長らえるものではない。
そんなことしか言えない。
私は、それを、祈りと思う。
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