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『芭蕉臨終記 花屋日記』考 [文学]

「元禄七年十月十日の午後である。一しきり赤々と朝焼けた空は、叉昨日のやうに時雨れるかと、大阪商人(おほさかあきんど)の寐起(ねお)の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘つたが、幸、葉をふるつた柳の梢を、煙らせる程の雨もなく、やがて曇りながらもうす明い、もの静な冬の晝になつた」──


 


 芥川龍之介の短編(400字詰、22枚ほど)、『枯野抄』は、このようにはじまり、芭蕉が、「旅に病むで」、「御堂前南久太郎町、花屋仁左衛門の裏座敷」で死に床に就き、臨終まで、弟子たちが代わる代わる、瀕死の翁の枕元に訪れ、それぞれの「愛」を伝える姿を描いたものだが、座敷は清潔で、文章は透明感が溢れている。


 


 一方、芥川が作品の土台とした、文暁筆とやらの『花屋日記』は、芭蕉が死の床へ就いてから、死までの人(や物)の出入りを、「即物的に」記したもので、芭蕉は、女弟子の、園女亭で、珍味を食べてから腹痛に見舞われ床に就く。


 


  廿九日 芝柏亭に一集すべきなりしが、数日打ち続て重食し給えしゆゑか、労ありて、出席なし。発句おくらる。


 


  秋ふかき隣はなにをする人ぞ 翁


 


  此夜より翁腹痛の気味にて、泄瀉四五行なり。尋常の瀉ならんとおもひて、藥店の胃芬を服したまひけれど、驗なく、晦日・朔日・二日と押移りしが、次第に度數重りて、終にかゝる愁とはなりにけり。


 


 


 腸チフスという説もあり、胃潰瘍だったと聞いたこともある。いずれにしろ、激しい下痢に見舞われ、厠と寝床を頻繁に往復。


 


 


  次第に聲細り、痰喘にて***給ひければ、次郎兵衛素湯にて口を潤しまゐらせけり。……(遺言)……言終りたまひて餘言なし。合掌たゞしく観音経ときこえて、かすかに聞え、息のかよひも遠くなり、申の刻過て、埋火のあたゝまりのさむるがごとく、次郎兵衛が抱きまゐらせたるに、よりかゝりて寝入給ひぬと思ふ程に、正念にして終に屬曠(ママ)につき給ひけり。時に元禄七甲戌十月十二日申の中刻、御年五一歳なり。


 


 弔問に訪れた人々、弔問の品、葬儀の様子など、リアルに記録されているが、本書は、偽書であるという。芥川はそれを知らずに、『枯野抄』を書いたらしい。また、正岡子規も、本書を読んで、感動の涙をこぼしたと、「解題」の小宮豊隆は書いている。


 偽書であろうとなかろうと、そのリアリティは大したものである。


 


 厠にひとり座って、芭蕉は、「師」である、西行に会った。西行に導かれて、地獄巡りをはじめる……。これは私の勝手な想像である。


 


 


   旅に病で夢は枯野をかけ廻る


 


 


   枯野越えて明日は帰らう伊賀の里 (山下)


 


 


IMG_2167.JPG

 

 


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