英訳版『失われた時を求めて』 [文学]
吉田健一が、訳詩集『葡萄酒の色』(岩波文庫)の「付録」の「翻訳論」で次のように言っている。
「翻訳は一種の批評である」
「翻訳に就て確かに言えることの一つは、我々が原作に何かの形で動かされたのでなければ、碌な仕事が出来ないということである」
「原文の所謂意味を取るだけでは原文を理解したことにならない」
「われわれが或る作品を愛読するのでない限り、その作品は存在しないのだ」
「我々が無理をしてでも何でも、その作品の中に入って行けたと思えなければならないので、そこから翻訳すること自体の問題が始まる」
つまり、吉田の翻訳観は、「対象の再現」である。だから、現実の花に魅了されてそれを絵に描けば、それは「自分なりの翻訳」となる。
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「スコット・モンクリイフの『失われた時を求めて』の英訳は、原作より優れていると言われている」
『失われた時を求めて』のフランス語の原作は、アンドレ・ドゥサルディエの朗読のCDをiPodに入れて、犬の散歩の時に、もう何年も聴いているから、最初の部分は暗記している。
「原作よりすぐれている」と言われる、モンクリィーフの英訳はどういったものか、入手して読み始めている。これは、いかなる事態か? モンクリィーフが、プルーストの原文に感動し、彼になりかわって、ぐじゃぐじゃ、不明瞭な原文を、「ほんとうのあるべき姿」に整理してしまったようである(笑)。
モンクリィーフは、半生をその翻訳に費やして、最後の一巻を残して死んでしまったので、別の人間が引き継いで完成した。
とかく、われわれは、「原文に忠実」なのを、翻訳の理想と考えたりするが、異なった言語間では、それは幻想であろう。
モンクリィーフの『In search of lost time』(『失われた時の探求』)は、プルーストががぜん輝いてくるのである。
もっと穿って言えば、ロラン・バルトなどが、小説というよりも、聖書のような文章だと感じた、「聖なる曖昧模糊」を、確かに「小説」にしたのは、あるいは、モンクリィーフかもしれない。
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