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『オン・ザ・ミルキー・ロード』──クストリッツァの「ゲルニカ」(★★★★★) [映画レビュー]

 

『オン・ザ・ミルキー・ロード」(エミール・クストリッツァ監督、 2016年、原題『ON THE MILKY ROAD』

 

 エミール・クストリッツァは、最初から、猥雑なユーモアを交えたグロテスク・ロマンの作風ではなく、その始まりは、デビュー作ではないものの、カンヌ映画祭で「最初の」グランプリを取った、『パパは出張中』では、少年の目から見た、共産党政権下の、「不都合な真実」を、シンプルな哀感とアイロニーで描いていた。パパは、共産党政権によって、「犯罪人として服役中」が「出張」の内実だった。

 その後、二回目の栄誉「パルムドール」を取ることになる、『アンダーグラウンド』では大いに作風を変え、まさに「アンダーグラウンド」で戦争を生き延びる人々(と動物)を、猥雑なエネルギーとユーモアとともに描き出していた。

 本作は、その『アンダーグラウンド』を下地に、『白猫黒猫』のロマンを交え、さらに政治的なイロニーを深めたものと見た。ひとつの村が完全に焼き尽くされる、これは、おそらく事実であろう。

 クストリッツァのもともとの故郷は、ユーゴスラヴィアで、もうその国は存在せず、もともと多民族多宗教国家だったので、ベルリンの壁崩壊以降のヨーロッパの分裂の影響は凄まじいものであった。

 近代の「ジェノサイド」(民族浄化)は、ナチスのユダヤ狩りをはじめ、近年ではアルカイダやイスラム国による中東跋扈が記憶に新しいが、2001年の9.11以前は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソボの紛争で、男性は殺害、女性はレイプと強制出産という民族浄化が行われていた。その中心となったのは、クストリッツァと同じ人種のセルビア人だった。

 クストリッツァは加害者の側と被害者の側の両者の傷を負った人間であると思う。それをいかに描くか? 村が消滅させられたという悲惨な「事実」のなかに、あるイタリア女との恋物語(この物語は力を与えてくれる幻想とその力を打ち砕くような悲惨な現実を、愛という感情で描き出していく、実に美しい物語だ。ここでは、「007」では、ただの大柄な年増女であったモニカ・ベルッチが、けなげで愛らしい)を入れていく──。

 これはクストリッツァの「ゲルニカ」なのだと理解した。事実、クストリッツァは基礎をちゃんとした映画学校で学んでいる、実はどんな作風でも描ける作家なのだ。だから、一見ハチャメチャでも、細部まで計算され尽くされ、まるでピカソがユーモラスなかたちの人間や動物に美しい色を入れていくように、猥雑なユーモアに満ちた複雑な映像に、美しい音楽(担当はクストリッツァの息子)を入れるのだ。

 

 本作は観客が思っている以上の重要な作品かも知れない。



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