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『希望のかなた』──無表情の中の魂(★★★★★) [映画レビュー]

『希望のかなた』 (アキ・カウリスマキ監督、2017年、原題『TOIVON TUOLLA PUOLEN/THE OTHER SIDE OF HOPE』)

 

 クリスマスイブに本作を観ることになったのは、天の思し召しかもしれない。相変わらず、映画.comの批評氏は、判で押したようなことしか書いていない。「心温まる」とかなんとか。本作で「心温まる」かどうか。確かに、動きのない画面構成からは、オズだかなんだか、そういう影響が認められなくもない。しかし、同じ無表情でも、日本人の解剖学的特性の無表情とは違った、一種独特の怖さを持った無表情で、カウリスマキ作品の登場人物たちは登場する。誰もが無表情で、実際、いい人か悪い人か、わからない。難民を痛めつける極右たちも、主人公を拾ってくれるレストランのオーナーも、結局は、主人公(シリア人の難民)をいろいろと助けてくれるレストランの従業員たちも、ケイタイ電話を貸してくれるイラク人の難民仲間も、フィンランドの警察も、移民局の人も、主人公に偽のIDカードを作ってくれるオタクの青年も、極端にいえば、同じ表情をしているのだ。

 そして、映画は、大団円も、カタルシスも拒否する。希望でも絶望でもない、「かなた」へ、観客を連れていく。

 結局、現実というものは、そういうものだ。「袖擦り合う」だけの人も、「親しく交わる」ことになる人も、外側からだけしか見ることができず、その人たちの心の動きなどわからない。それが、普通の映画だと、手に取るようにわかったりする。それで、観客は、主人公に感情移入できる。本作では、主人公にさえ、感情移入できないようになっている。ただ、シリアのアレッポ(イスラム国の占領地であり、政府軍と反政府軍が対立した内戦が続く。安倍首相は、自衛隊をシリアに送り込むに当たって、「戦争状態ではない」と言った。最近は、戦乱状況も、安定してきたと聞くが)から、ヘルシンキに辿り着いた主人公の青年に添って、難民がどういう扱い(よくも悪くも)を受けるかが具体的に目撃できるのみである。

 無表情、殺風景な場面に、劇的な年寄り(?)のミュージシャンたちの歌声が流れ、主人公の青年もまた、琵琶に似た弦楽器を弾いてみせる。その音は、魂というものの存在を浮かび上がらせる。それは、希望よりも尊いものなのである。




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