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『女神の見えざる手』──セリフまわしという演技力(★★★★★) [映画レビュー]

『女神の見えざる手』(ジョン・マッデン監督、 2016年、原題『MISS SLOANE』) 


 


演技力というのは、べつに情緒だけを表出するのではなく、セリフの繰り出し方もその一つである。ジェシカ・チャスチンには、なにかそういう基礎力があるようで、ナヨッとした線の細い「印象」ながら、よく見れば手脚も頑丈そうで、強い女の役柄がよくまわってくるようだ。大柄の肉体を振り回す、「無言の」(笑)、シャーリーズ・セロンの強さとまた違った強さである。


 


 アメリカの政治は議員中心で行われ、議員が力を持っているので、ロビイストという、利益団体に代わって議員に働きかける仕事も成立する。本作は、そういう、これまで描かれてこなかった世界を描いている点で新しいし、むちゃくちゃな仕事人間を、女性が演じている点でも新しい。


 


 専門用語の乱射のような脚本であるが、伏線がよく効いていて小気味よい。とくに、本作のオチである、「肉を切らせて骨を切る」といったヒロインの作戦は、仕事人間の安らぐ場所が、塀の中という点でも、眼からウロコものである。


 


 性のはけぐちというより、恋愛している時間がないので、異性と疑似恋愛風に触れあうために、男を買う、それもなんだか、さわやかなのである(笑)。


 


 男性陣は、銃規制派のロビイスト事務所を持ち、チャスチンをスカウトするマーク・ストロングといい、チャスチンを裁く裁判で裁判長をやる国会議員のジョン・リスゴーといい、風貌はハデだが、意外と演技は地味な役者を配して、チャスチンの知性を際立たせると同時に、精一杯の華を持たせている。エスコート業の男も、少しの色気を添えて、なかなかよかった(笑)。



 


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【詩】「インターコース」 [詩]

「インターコース」

 

私は再び眠りにつく。眼を開ける。完璧な肉体の男が覆い被さっていて、インターコースに向かおうとしている。それはエスコート業の男で、日本の「風俗」とはまったく違った概念の職業だ。「風俗」は、まさにその名のとおり、「風俗」を売る。自ら付けた商品名である。エスコート業は、ただ単に肉体を提供するのではない。疑似恋愛を売る。それが疑似とわかっていて買う。考えてもみれば、脂肪のついた配偶者と生活的に「ヤル」それとはまったく違う。エスコート業の男は私をすてきな女だと感じさせてくれる。闇の中に見るのは、星々の万華鏡。性器と性器が触れあうとき、タンゴが流れ、リズムに合わせて踊っているかようなエクスタシーを感じる。エスコート業の男の顔は、完全なる美男ではない。べつだん顔と性交するわけではない。しかし肉体は完璧。極上のサービスを提供するために鍛えている。どんなババアも、自分が最高の女だって思わせて、冷えきった炉に火を放つように、燃え上がらせてみせる。はは、火星人の哲学か。それは、Daseinが、外部に存在するんだな。そう、宇宙の彼方に。フランクじゃなかったのね。ああ、フランクは辞めたよ。どうする? オレで気に入らなきゃ、帰るよ。まあ、いいわ、あなたで──。それからディープなキスをして、ヤリまくり。ひさびざトシを忘れたわ。いや、あんたまだまだいけるぜ。おほほほ……。はい、お代。

 

 


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【詩】「かじか2」 [詩]

「かじか2」

 

私は瀧井孝作が夢のように美しいと書いた気多(けた)川に揺れ動く、かじかの影だった。

砂色の幼年期の幻影だった──しかも私は生きつづけ、泳ぎつづけたのだ、守ってくれる色をした川底で。

さらに幼年期から見たものだ

自分自身を、ニジマスを、濃緑色の深みのウグイを。

夏の終わりを告げ、澄んだ水に

すべての人生が水底に見えるように映し出そう、

何と喜ばしいことだろう、眺めやる草原を

いとこたちの足が踏みしめ、忘却がやってきて

その星の上、あの宇宙の重力のなか

こんなふうに言うのは。

「つまり、夢は混合した機能をもつものなのである」*

 

*****

 

註:*印は、ルードヴィィヒ・ビンスワンガー『夢と実存』中の、ミシェル・フーコーの序文より引用




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【詩】「かじか」 [詩]

「かじか」

 

幼少時に、かじかなる言葉を、白樺派の作家なみの回数聞いてしまった。それは父の故郷である遠州の川にかじかがいたからだ。その証拠に、祖父の妹で豊橋に出ていた、「税務署のおばさん」と父が呼んでいた人の息子は、寿司屋に修行ののち、自分の寿司屋を開店した。その名も「かじか寿司」。父に連れられて「かじか寿司」へ行くと、われわれ一家はお座敷にあがって、たらふくにぎり寿司を食べ、店主のひろゆきという人は、決してお代を取らないのだった。すでにどういう関係かはわからなくなって、遠州関係の親戚と、ざっくり認識していた。遠州の父の実家には、実にいろいろな「親戚」が集まって来ていて、全員が泊まった。離れもあったので、寝る場所に困るということはなかった。早朝、まだ客たちが眠っている頃、ロシア文学で描き出された、山奥の村に早朝訪ねてきた、なにかの使者、あるいは乞食、あるいは修行僧のような不思議な人が、遠州の家にも訪ねて来て、なにか施しのようなものをもらい去っていったということがあった、ように思う。奥深い山で、かじかは、その谷川で鳴いていた。というのは、もしかしたら、あと知恵で、俳句の季語として知ったのかも知れない。その言葉を何度も耳にしながら、私は実際、かじかが、「どんな魚」か、知らなかった。かじかは、蛙の一種だった。それを知ったのも、つい最近といえばいえる。「その明証性には曇りが」*「哲学のうちに逃げこむ必要などなしに」*夢が記憶を破壊する。蛮族に侵入されることもない遠州の森。

 

 

*****

 

註:*印のカギ括弧内の文章は、ビンスワンガー『夢と実存』中の、本文の倍以上の長さがある、ミシェル・フーコーの「序文」より引用)

 

 


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『バリー・シール/アメリカをはめた男』──歴史的にはお宝映画(★★★★★) [映画レビュー]

 

『バリー・シール/アメリカをはめた男』(ダグ・リーマン監督、 2017年、原題『AMERICAN MADE』)

 

 トム・クルーズは、だいたいにおいて、どんな映画も同じキャラを演じているといっていい。つまり、体制から距離をおきつつ、体制をおちょくってみせる。本作も、事実がもとでありながら、トム・クルーズお得意のキャラに、おそらく「変換」し、話を進めている。だが、本作とほかの作品が違うのは、映画、とにくエンターテインメント系の映画では、あまり描かれることのなかった、1980年代の中米がとことんリアルに描かれている点である。とくに、親ソ連のサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)政権が支配するニカラグアを、その空気感からつぶさに描いている。

 

 当時、アメリカ議会は民主党が多数で、反共ゲリラ、コントラへの武器の供与は禁止されていたが、そこを、CIAが、TWAの凄腕パイロットであった、バリー・シールをスカウトし、武器などを運ばせる。しかし、ニカラグア側の麻薬マフィアも、逆にシールをスカウトし、麻薬をアメリカに運ばせる。こうしてシールは、こうもりの活躍をしていたのだが、やがて、こういうものの末路として、最後はマフィアに射殺される。だから、いつものクルーズものとしては、やや痛快さに欠ける。スカッとしようと思って見に行くと肩すかしを食わされる。しかし、歴史的には、お宝映画であると言える。当時のアメリカ大統領、ドナルド・レーガン、禁止されているイランへの武器供与をした「イラン・コントラ事件」の、イランとコントラとの窓口になっていたとされる、当時は副大統領であった、ジョージ・H・W・ブッシュの動きがさりげなく挿入されている。

 

 アイルランド出身のドーナル・グリーソンが、シールをスカウトする、調子のいいCIA局員を、前髪垂らした、当時の顔を描出していて芸域の幅の広さを見せつけている。

 

 ジェーソン・ボーンシリーズや、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』のダグ・リーマン監督の、一筋縄ではいかない「エンターテインメント」である。

 

 


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『ブレードランナー 2049 』──陳腐。(★★) [映画レビュー]

『ブレードランナー2049』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2017年、原題『BLADE RUNNER 2049』


 


前作の時点から30年経過しているわりには、前作とほとんど同じに見えるロス(?)の街。酸性雨は降り続け、レプリカントは溢れ続け、前作でレプリカントを愛し、二人でどこかへ逃走した刑事デッカードはゴーストタウンのようなところに隠れ住んでいた──。


 某所で発見された人間の骨と髪の毛を分析する市警(いまだに?)は、骨に製造番号を見つけ、それが、レプリカントであることがわかる。そして、さらに調べると、そのレプリカントは身ごもっていたことがわかり、帝王切開で子どもが出されたこともわかる。さあ、その子を探せ!である。ディケンズの時代のロンドンのように、子どもばかり働かされている場所がある。刑事のK……のあとには、番号がある、レプリカントであることが早くに明かされる。そう、「今度の主役」は、レプリカント。


 ハリソン・フォードに代わって、ヒーローを演じる、ライアン・ゴズリングの刑事は、レプリカントなのである。そして、魂があると信じている。そして、もしかしたら、デッカードとレプリカント、レイチェルの子どもは、自分なのではないか?とさえ思う。


 彼には、ホログラムのガールフレンドのような「女」がいる。その「女」は、Kを愛しているようでもある。前作と主題が重なる。……というか、前作の「柳の木の下」を狙った作品である。斬新さのある、ドゥニ・ヴィルヌーヴではあるが、リドリー・スコットが製作総指揮で、睨んでいるとあらば、そう好き勝手にはできなかったと見える。どうりで、スコット監督の、『エイリアン:コヴェナント』でも、レプリカントがでてきて、旧型だの新型だのいっていた。それと同じことを本作でも言っている。


 魅力的な人物がひとりもいなくて、キャラが立っていない。ただひたすら、前作の「続き」のオハナシを作るのに終始。


 どーでもいいが、人間そっくりで、妊娠までしてくれるレプリカントではあるが、そのあたり、科学的に、「少しでもいいから」説明がほしい。いったい皮膚や臓器はどういった材質でできているのか?


 ごていねいに、前作で、レプリカントのルトガー・ハウアーが、雨のなかで「死んで」いき、名演と言われたが、そっくりそのまま、ライアン・ゴズリング、今度は、雪のなかの「死んでいく」。まあ、36歳のゴズリングは、リアルタイムでは、前作を見てないでしょうが。しっかし、ハリソン・フォードが出ると、もうそれだけで、物語は陳腐化する。そのことを、もっと考えた方がよかったのでは?


 普通の字幕版がなかったので、iMAX3D版を鑑賞。まあ、それなりに建物の高さによる、「深さ」は出ていたと思うが、それだけでは、星をもうひとつ追加はできない。音楽は、まあ、よかった。最後のクレジットととも流れる曲だけは、2049になっていた。それで、星をひとつ追加。


 


 


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【詩】「ちーこ」 [詩]

「ちーこ」

 

暑くもなく寒くもなく、虫の音もとだえ、宇宙と遠州の家が一体化するとき、祖母や祖父が土のなかからよみがえり、私が山下家の一族のひとりであることを教える。どうしてそういうことになったのか、もはや誰も、従姉の恩師の女教師も教えてくれないのであった。その恩師は、従姉が連れていってくれた彼女の家の縁側で、木のパレットの固まった絵の具をナイフでそぎ落としながら、街の高校へ行った従姉に、学校の科目のなかでは何がすき?と聞くと、従姉は、「かんぶん」と答えるのであったが、その「ん」の音が、私には「m」として耳に残り、はたしてそれがなんなのかわからないのであったが、教師は、「そう、あたらしい科目だからね」となかば満足げに答えるのであった。私たちは山に包まれ、じゅうぶんな幸福を感じていた。従姉同士に生まれたことがなにか宝のように感じていた。ちーこ。もうその女はどこを探してもいないのであった。私は夢の門の前で、夢の掟の厳しさにうなだれて、お願いですからちーこにもう一度会わせてくださいと、えんまさまなのかまりあさまなのかべんてんさまなのか、実際のところ誰かわからない人にお願いするのであった。


 


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【詩】「お祭りの夜」 [詩]

「お祭りの夜」

 

いちのみやのおばあちゃんちで寝ていて柱時計が鳴って目覚めてしまった時、私は自分の家を今出るところだという錯覚にとらわれ、頭と足がどっちの方向を向いているのかわからなくなり、自分自身がある種の考えそのもののような気がしてくる。肉体は透明になって、私自身が四方八方へ延びていき、それは時間への浸潤という言葉がぴったりとくるような。遠い旅人であったり、悲しい旅役者であったり、芸に疲れた猿であったり、もっと遠くの砂漠の国の夢の破片であったり、間違ったままの文法であったり、決して読み終えられることのない本であったり。〈私〉というものも解体して、なんどもなんども夢への侵入に失敗する、そんなお祭りの夜。




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そして…… [政治]

「立憲」に期待するしかない。



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選挙結果感想 [政治]

圧勝の確信あってこその解散だったので、べつに驚かないが、ネットで反安倍が盛り上がっても、PCもスマホもない人々が取り込まれていてそれが「基盤」になっているような。格差のせいで、そういう人々は増え続けているような。



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