Mac OS High Sierra と Osaka [コンピュータ]
Mac OS High SierraにしてOsakaが消えた場合、アプリケーションのFont BookでOsakaをいったん「使用停止」にし再度「使用」にすると表示するよ(わかる人にはわかるお知らせ)。
【詩】「知らない町を歩く」 [詩]
「知らない町を歩く」
小林秀雄の講演CDは、講演の生記録なので、実際の講演に入る前の紹介が長い場合がある。第八巻所収のある巻もそんなで、小さな声が、長々と小林秀雄を紹介している。「えー、小林さんは、わが国の文学評論を……」そんな感じで紹介を始めたと思う。そういった紹介者は、その講演を主宰している人が多く、何十年も前のことなので、いかにも律儀な雰囲気が伝わってくる。私はこうした音は、おもに犬の散歩でiPodで聴いているので、歩きまわる犬に従いつつ「紹介」が終わるのをがまんして聴いている。やがて小林秀雄が登場する。まず紹介者について言及する。
「久松先生は、大学で私の先生でした。はじめは偉いとも思わなかったんですが、そのうち偉い先生だとわかりました」(会場からの笑いが伝わる)
なんと、教え子の方が態度がでかいのであった。
「先生の『日本文学評論史』はとても……」
久松潜一著作集10『日本文学評論史』(昭和四十四年、九月、至文堂刊)の月報で、偉大なドイツ文学者の手塚富雄が、「久松先生のこと」という文章を書いている。
「久松先生が東京大学を定年でおやめになったのは、昭和三十年の三月だったと思う。わたしは昭和十八年秋から東大に奉職したので、十年以上、先生と同僚関係にある幸福をもったのである」
「昭和十八年にわたしが松本高校から助教授として東大に移ったとき、教授会で遠目に見る年配の諸教授は、木村謹治、市川三喜、今井登志喜の諸先生を始として、学生時代に教えを受けた方が多かったので、みなずいぶんこわく思えた。はじめて見る先生も、和辻哲郎、児島喜久雄、大西克礼という人たちは、そのつらだましいからして一癖あって、一種の威風を発散していた。その中で久松先生からは、お齢もその人たちほどでなかつたし、物静かで、謙抑な感じを受けるのであった」
「なにかの全集的な出版物の折込みに、目立たない形で載せられていた久松先生の短い言葉に」
「『自分の趣味』というアンケートの欄があって、さまざまの人のさまざまな回答が並んでいた。その中で先生が答えられていたのは、『自分の知らない町を歩くこと』というひとことであった」
「先生ほどの大きい学者が、いま田舎のうらさびれた町筋を誰に知られず独りで歩いている。それはあ当面の学問とは何の関係もないことである。ただそうして常の町、常の人々の中に独り没するひと時をもつことが、人にはなんの負担もかけることのない先生の心遣りなのである。だが、あえて言うならば、いや、言わなくてもよいのであるが、ひいてはそれは、日本の言葉と日本の文学を生んだ母胎そのものに没することなのである」
そうして私は、小林秀雄講演のCDの「紹介者」の消え入りそうな声の「背景」を理解するのだった。
思えば、学者でもなにものでもない自分が、古書を求め、その染みのついた月報を丹念に読むことは、知らない町を歩く楽しみに似ていないこともない。
【詩】「ばんの」 [詩]
「ばんの」
日本思想体系の「熊沢蕃山」冊子の蕃の次をルーペで(笑)じっと見ていたら、なるほど、番の字にくさかんむりがついているのかと思ったが、そのくさかんむりのない「番」の字から、「ばんの」という言葉が思い浮かんだ。私の長い人生のなかで、この言葉はわりと頻繁に頭に思い浮かぶ。それは、小学校の同級生の名字で、正しくは「伴野」と書いたと思うので、とりわけ珍しい名字でもないだろう。そして、半世紀を経た上で、ここに実名を書くことに、大きな支障があるとは思えないし、また本名でなければならないのだった。今後の生においてもいかなる「ばん」が来ても、私はこの名を思い出すだろう。これもまた、未知への鎮魂かもしれないが、もはや、角もろとも、顔の半分を削り取られたサイの画像を見たあとでは、いかなる鎮魂も焼け石の水であることを感じた。「ばんの」に、「くん」をつけないのは、それが、一個の人格、思い出のなかの個人ではあり得ないからで、しかも、その男子には、同級生でありながら、ジャーナリストの精神で接し、彼の内面に迫るインタビューまでしていたからだった。このような男児が、自己の外部に対して、本心を吐露することなどあり得ないが、私は本音を引き出していたと、今となっては思う。ばんのは、私の母方の故郷である、三河一宮は砥鹿神社にその昔かかった、見世物小屋で見た、牛男に風貌が似ていたように思う。その牛男は、観客の前で、教室のような机を前にした椅子に座り、ビスケットのようなもぼりぼり、人々がじっと注視ていることなど気にせず食べていた。どこが牛男なんだろう? と思ってじろじろ見ると、足が、裸足の足が、蹄になっているのだった。その男を、伴野の風貌は彷彿とさせた。彼は今でいう、ジングルマザーで、兄弟はいたのかもしれないが、私が彼の、小学校裏の、家を訪ねた時(私はどこへでも訪問したいたのだった(笑))は、ばんのと母親だけで住んでいたようだった。その家は、その時代はそれほど目立つわけでもない、掘っ立て小屋のようだった。もちろん、私はそこには長居しなかった。小学生ゆえの、気軽さで、ばんのも受け入れたのかもしれない。母は「ばー」に勤めているということだった。
ある日、温厚を装っている教師が、ばんのが彼の物言いを真似たというかどで、教壇に引っ立て、二回びんたを張った。「いいか、もうするなよ」と低くつぶやきながら。教師もばんのには、ことさら冷たいようだった。
勉強などできるわけがない。
そして、高学年になったある日、ばんのの姿はなく、「万引きで少年鑑別所に送られた生徒がいる」と教師は言ったが、だれも気にする人はなかった。ばんのだな、と私は思ったが、ほかの生徒は、「明日はばんの」のやつも混じっていたと思うが、そんなやつでも、おのれの牧歌のなかにいて、誰も、ばんののことなど、思い至るやつはいなかった。
荒れ地を必要以上に開墾地にしてはならぬ。耕地の新規開発は村の荒廃を招く。という考えの蕃山の、「蕃」の、くさかんむりをとれば、ただの「番」。そして、その「音」は、ただちに「ばんの」のイメージを呼び起こす。
「山下さん、困るなー。ネットにこんなこと書いて。削除してくださいよ」てなことになることはあり得ないと思って書いているが、ことさらに個人情報は書いていない。はなから、そんなものは、ばんのにはないのだった。
『ローガン・ラッキー』──ダニエル・クレイグがオモロすぎる(笑)(★★★★★) [映画レビュー]
『ローガン・ラッキー』( スティーヴン・ソダーバーグ監督、2017年、原題『LOGAN LUCKY』
ほんと、ダニエル・クレイグは「こっちの方が」あってかるかも。007で、かっこつけた紳士を演じるより。
ローガン兄(チャニング・テイタム)、弟(アダム・ドライバー、なるほど、この二人はよく似ている)が、カーレース場の売上金強奪を計画し、獄中の爆破犯ジョーの助けを借りに行く。その場面がすでにして見ものである。銀髪を短く刈り上げたオッサンは、どこか『時計仕掛けのオレンジ』のアレックス坊やの、ジジイになった姿を彷彿とさせる。面会のテーブルを挟んで兄弟と対面する。兄弟は、「伝説(一応、地方の、ですが(笑))の爆破犯」を前に、神妙な顔つきをしている。とくに、アダム・ドライバーーが、『パターソン』からのキャラをどこか引きずって、物静かで冷静沈着に見える。そんな二人を前に、悪びれたクレイグ曰く、
「こんなシマシマのベビー服着せられて……」その服役服が、高級スーツよりよく似合う(笑)。
爆弾(と、呼ぶことをジョーは好まない)の作り方も、独特である。ジェリービーンズと、あと2品の生活の品で、爆発物を作ってしまう。そのとき、「そんな材料で?」と疑問視する兄弟に、化学式を書いて、爆薬の構造を説明する。
レース場の売上金は、安全を考慮し、秘密のカプセルで集金場まで透明パイプで送られる。地下工事をしていたローガン兄のジミーが発見したのだ。そしてそれを地下から襲おうという計画を立てる。はたして、『オーシャンズ・セブン-イレブン』とギャグがとばされ、メンバーが集められ、「11」のパロディのようになっていく。ま、ほとんど自己パロディだ。しかし、ジミーは、虐げられた人々にお金を届ける──。
美少女コンテストに出るのが目標の、ジミーの幼い娘がブスい(笑)。かなり後から出演する、FBI捜査官の、ヒラリー・スワンクも、けっこう重要な役で出ている。というのも、その捜査によって、保険会社とレース会社のダークな関係が暴かれる。レース会社は強奪にあっても、金は保険会社によって補填された。よって、盗っても咎められない金が出るということだ。そのへん、がちゃがちゃと複雑で、「オハナシ」が見えない感もある。しかし最後は、移動診療所の女医だか看護師役のあのヒト。あのショートヘアと丸顔の愛嬌ある顔はどこかで見たと思ったら、『エイリアン、コヴェナント』のヒロインである。その彼女は、高校時代にバスケットの花形だったジミーのあこがれていた。ジミーは覚えていなかったが、その二人が弟クライドのバーでデートし、ジョーはローガン兄弟の末っ子の妹と、そして、ヒラリー・スワンクは……「うっふん」、お仕事のひっつめ髪をバラしてカウンターに座っていて、アダム・ドライバーに、「ひとりのお酒は演技が悪いので、いっしょに乾杯して」と、バーテンのドライバーに色目を使い、彼もまんざらでもなさそうに受ける。おわり(爆)。ローカルなローカルなカントリー曲流れる、なんのことはない、ラブ・ストーリーでした〜。あ、みんなすんごい訛りでね。
「出版革命」? [文学]
「出版革命」?
ある男が、「いつかまとまった金を作って、オンデマンドでない詩集を出したい」と言って、ISBNも取得していた。これは取得に4万円ぐらいかかる。本を識別する数字だが、はっきり言って、自費出版には意味がない。書店に置いてもらっても、その場所が問題である。たいていは、奥の隅っこである。あるいは、「自費出版コーナー」(爆)。店のいちばんよい場所は、「売れ筋」著者の場所である。最近は、大手出版社だけともかぎらないが。オンデマンドでない本を夢見る人は、勝手に、本屋のよい場所に自分の本があるのを思い浮かべる。しかし、それは妄想である。
実は、私は、製直.comのオンデマンドは、この男がやっていたので気づいたのである。
私は、この方式がかなり気に入っている。校正はできないので、まず1冊注文して、できを見る。何度も「やり直す」のはよくない。ここの場合、そのぶん、「違う商品」になってIDも別のものになるので、それだけ、どれが一番いいものか、わからなくなってしまうのだ。よって、ある程度読めるものなら、一発勝負で、それを「決定版」とするしかない。しかし、在庫を抱えるわけではないので、ロングセラーを狙える。というか、いつでも、「思いたった時」に、売ることができるので、「期間」を気にする必要はない。
最近の詩集を研究するに、注目されている詩人は簡素な作りで、ド素人が、どんどんりっぱな装丁の詩集を作る傾向にある。中身は、ぺらんぺらん、である(笑)。そういう商売が横行している。
はっきりいって、大作家の文学全集ではないので、「初出一覧」もいらん(どうせ、どこかの同人誌か、数作は、「現代詩手帖」とか、あのあたりである)。
表紙などのデザインに関しては、色校正とかいうが、本の色の調子の違いなど、読者はいちいち見ていない。それだけ時間が取られる。あれも、古き慣習、しかも、既存の出版社で行われていたのを、なぞって、それらしく見せて、満足を味わっているにすぎない。スティーヴ・ジョブズも、パソコンを売る際、誰もがやっていて、その実、意味はなかった商習慣を、廃止した。そういう、よく調べてみると意味のない習慣や行程が、出版界といわず、商業界全般には、けっこう多いと思う。
自費出版作者は以上のようなことにも留意すべきである。
あ、でも、この製直.comで、自分ひとりで、ちゃんとした本を作る場合は、Word、PaintShop、Pdfなどのソフトには、ある程度通じていないとハナシにならない。もっと簡単な「お手軽コース」も用意されているにはいるが。
第三詩集『Pale Fire(青白い炎)』のご案内 [Book]
『ノクターナル・アニマルズ』──映画の「現代美術」(★★★★★) [映画レビュー]
『ノクターナル・アニマルズ』(トム・フォード監督、 2016年、原題『NOCTURNAL ANIMALS』)
普通の映画の見方で本作に立ち向かうと、なにがなんだかわからないことになってしまう。まず、トム・フォードは、普通の映画の作り方とはまったく違う方法を取っている。配役からして、「どこかおかしい」と思わなくてはいけない。若き日を演じていようが、今を演じていようが、俳優の実年齢を記入すると、ヒロインのスーザンを演じる、エイミー・アダムス43歳、元夫役、ジェイク・ギレンホールは、37歳。この二人の間には、「子どもがあったが堕胎した」とスーザンは、今の夫と知り合った頃告白しているが、現に、男といっしょに寝ている娘がいるが、この娘は、いったい誰との子どもなのだろう? そして、ハンサムな今の夫、アーミー・ハマーは、31歳なのである。実にうらやましいスーザンである。つまり、「夫たちが若い」。エイミーのブルジョワの母親役は、気の毒にも、53歳のローラ・リニー。ここで、なにかヘンと思わなくてはいけない。
これは、もしかしたら、すべてスーザンの幻想かもしれない。しかし、まあ、前夫が小説のナマ原稿を送ってきたのは現実だとしよう。前夫は、弱さが欠点で、大した作品も書けてなかった。一方、スーザンは、現代美術のギャラリー・オーナー=キュレーターとして成功している。ここがポイントである。現代美術の世界である。だから、オープニングのフルチン・デブ・オバチャンの狂い踊りは、インスタレーションなのである。現代美術はこんなところまで行ってしまっている。
つまり、これは、ある意味、最先端の映画。スーザンと前夫の才能合戦で、完敗した前夫の、まあ、リベンジ(だから、二重の意味)なのである。小説にのめり込み、圧倒され、前夫を自分から誘い、日本じゃとても着られない超セクシーなドレスを着て、高級レストランで待つスーザン。スコッチだかなんだか、食前酒が何杯も重なり、ほかの客たちは帰り始めても、前夫のエドワードは現れない。エドワードが勝ったのである。いい男を両天秤にかけるととんだしっぺ返しを食うという、トム・フォードの「復讐」だろうか? それにしても、男のシュミがまったく私と同じなのには、マイッタわ(爆)。だって私も、アーミー・ハマーとジェイク・ギレンホールを思い浮かべながら小説を書いていたのだ(笑)。
観客の先入観を完全に裏切る配役のもう一人に、『フロスト×ニクソン』で、辣腕ジャーナリストのフロストや、『クイーン』では、ブレア首相を演じた、さわやか知性役の多いマイケル・シーンが、小説に書かれた人物とはいえ、とんでもないゲス野郎を演じていて、フォードのセンスはまったく現代美術である。
クレジットでは、ゲンズブールの「ボードレール」が眼に留まったし(笑)。
そして、前夫のエドワードは、「現在」の姿は、一度も晒さない。
【詩】「Pale Fire(青白い炎)」 [詩]
「Pale Fire(青白い炎)」
2時間43分の『ブレード・ランナー2049』をもう一度観た。
前回は前半始まってからの鑑賞で、
しかも途中こっくりとやってしまって、
ちゃんと観たとは言えなかった。
それですますこともできたが、
最後のクレジットに出てきた本のタイトルが気になった。
恥ずかしながら、一回目の鑑賞では、その本について、
どこに出てきたかわからなかった。
それは、主人公のK(以下、スラッシュと数字とドットが続くが、ただKとだけ呼ばれることもある。ただのKは、当然、カフカの登場人物とカフカそのひとを思い起こさせる)が、
「読んでいた」本で、Kの部屋のテーブルに置いてあるのが
さりげなく映し出された。それから、
早く過ぎ去ってしまって確認できないが、
LAPD(2049年にも存在した(笑))のKが、オフィスに帰還したとき、「認証」を要求され、そのとき、文章を言わされるのだが、
もしかしたらそれは、その本の中の引用だったかもしれない。
アンドロイドは、人間と逆で、未来は変えられないが、過去は変えられる。
埋め込まれた記憶。小さな木馬に彫られた日付、21.6.10。ほんものの木でできている。
二度、Kの手のひらのうえで雪が溶けていく場面がある。
Kがしきりに気にしていたのは、「魂」の問題である。アンドロイドに魂はあるか? 製造されたのではなく、「生まれた」ものには、魂がある? Kはそこに拘っていた。
前作で、人間のLAPD、デッカードは、叛乱容疑で追っていたレプリカントの女と恋に落ち、どこかへ「駆け落ち」した。
その続編の『ブレードランナー2049』では、その女が出産していて、その子供を探し出すというのが、Kの任務だった。
Kの記憶のなかの、木馬にまつわるできごとと、その木馬に付された日付。
もしかしたら、その子供とは、自分ではないかと、
甘い夢を見るK。
映画は、レプリカントと人間の「境目」をしきりに問題にしてくる。
レプリカントとは、プログラミングされたAIに、おそらく、バイオテクノロジーで開発された、人間の細胞と酷似した細胞を持つ、
人造人間。
これはなにかのアレゴリーか?
いや、アレゴリーではないと、柳田国男なら答えるだろう。
そして「魂」は、「物」にも存在すると。
「魂」と人間の「肉体」は、必ずしも平行関係にない。
「魂」は魂として存在する。
免疫不全という理由でガラスの檻に隔離されて育った博士がいて、
彼女は、記憶のエキスパートで、記憶を分析かつ、創造することができた。
Kが彼女を訪ね、自分の記憶が自分本来のものか、人工的に埋め込まれたものか調べてもらう。
「そこに座って。その記憶を思うだけでいいわ」
彼女はそう言って、ガラス越しの顕微鏡のようなもの(解析用PC?)を覗く。
そして、涙を流す。
Kは察知して、絶望の叫びをあげる。
その「記憶」は、彼女のものだった──。
おそらく、Kは、彼女の「記憶」のコピーを収める「器」として選ばれたのだ。
この映画は、監督ヴィルヌーブが描いた、一篇の詩だった。
読書するレプリカント。その本が彼を進化させていた?
それは、小説だが、一風変わった小説で、四つの詩篇からなる詩と、その序文と解説より成り立っていた。
なぜ、「寝落ち」していた私が、延々と続く赤い小さなクレジットの文字の中からその題名に目がいったのか?
それは、まさに私が読んでいた本だった。
その本の名は、ウラジミール・ナボコフ作『Pale Fire(青白い炎)』。
もしかしたら、私も、レプリカントかもしれない。
そして、その本の作者も。
そんな詩が書かれている。
【詩】「猿蓑2017」 [詩]
「猿蓑2017」
冬でなければならない
時雨でなければならない
旅人でなければならない
そして
猿でなければならない
露伴を通さねばならない
とりわけ思い出されるのは、母方の故郷の三河一宮の砥鹿神社のお祭りの、境内に出ている見世物小屋。今でこそ人権問題に抵触するので、そういったものは消滅したと思われるが、当時は、見世物が祭りに華を添えていた。蛇女だの、牛男だの。ものものしい看板には、赤ん坊を取り上げる白衣の医師の姿が描かれている。そして、体が鳥の人間。下半身が蛇の、着物を着た女。猿は、生身の猿で、小屋の外の台の上に繋がれていた。首に繋がれた鎖は、長さが、猿の手が台の上に着くほどにはなかった。だから猿は、中腰のまま中途半端な姿勢で群衆の前に晒されていた。あの猿の気持ちに、五十年以上も経った今もなってみるのだ。そうすると、時間の中に時雨が降り、そう、その名のとおり、時の、雨であることがわかる。
初しぐれ猿も小簑をほしげ也 芭蕉
「幻術の第一として、その句に魂の入らざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし」(其角序より)
その猿の魂を鎮めようと、長い間願っていた。
「小みの」は西行の歌語なり。
「集の第一に多の句を出したる、おもしろし。代二の和歌撰集には、春をこそ巻首に出したれ。それを古例にかゝはらずして、此頃の此句のふりを中心にして成りたる集のはじめに、初時雨をさつと降らせたる、いかにも俳諧の新味なり。
○ほしげ也。舊説に、定家卿の、篠ためて雀弓張るをのわらはひたひ鳥帽子のほしげなりけり、といふ歌に本づけりとなせり。されど此句は所謂『古歌取り』の句にはあらず。古歌取りの句といふは、後の人の句にて、秋来ぬと目にさや豆のふとりかな、といふやうなるを云ふなり。ほしげなりといふ語は、いかにも古歌に見えたるべきも、そは胸中に萬巻有れば、語を下すおのづから来歴無きは無きものなり。あなぐり論ずるはおもしろからず。引きたる歌も定家卿のにはあらず、夫木和歌抄巻三十二に見えたる西行小人の歌なり」(幸田露伴『評釈猿蓑』より)
そして、芭蕉は西行に導かれ、地獄めぐりをするのだった。
かなたには、ベアトリーチェの星。ホログラムの。
深い深い時間の谷。
ゆきかうは、宇宙艇。
だまされし星の光や小夜時雨 羽紅
羽紅。集中最多の躍進、凡兆の妻。のち、剃髪。凡兆も入獄、没落。
*
広沢やひとり時雨るゝ沼太郎 史邦
沼太郎はヒシクイの一種。暗い雨の沼でひとり立っている。いよいよ時間は深く、空間も深い。
ヒシクイは雁の夢をみるか。
最終巻の巻之六は、芭蕉が住んだ「幻住庵」のエッセイと、そこを訪れた人々の句に記録である、「几右(きいう)日記」とで成っている。
「几右日記の句、佳章いくばくも無し、多く是れ當日即席率爾の作なれば責むべからず。此集第六巻は幻住祈りのみの事にかゝる。猿蓑に取りては附録やうに見て可なり」(露伴『評釈』より)
雨が降っても簑を着る人はおらず、