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『ウンベルト・エーコ 小説の森散策 』──稀有で卓越したネルヴァル論でもある。(★★★★★) [Book]

 『ウンベルト・エーコ 小説の森散策』(ウンベルト・エーコ 著、 和田 忠彦 訳、岩波文庫 2013年2月16日刊)


  奇異な生涯を送った、フランスの作家、ネルヴァルに関して、とくに懇切丁寧に分析、紹介している。実は格好のネルヴァル論であり、入門書である。はかない青春の時間への思いが、論であるにもかかわらず、胸をつく。


 私は本書によってネルヴァルを知り、全集も原書も購入した。


  エーコのベストセラー小説の、『薔薇の名前』とは違った、もっと純文学に味方する論は、大江健三郎の『新しい小説』よりは、ずっと若い作家志望者に役にたつ。


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コピーが激しい(笑) [Book]

Amazonレビューより転載(ここだけね(笑))


 


『現代詩手帖 2018年 10 月号 [雑誌] 雑誌 – 2018/9/28 


 


このザッシの版元から、実に夥しい「詩人」が詩集を出していて、若手で売り出せるとふんだ詩人以外は、すべて自費出版と思われるが、1冊出すのに、100万円はかかるだろう。ただ、大学を出たばかりの若い人が、有名装丁家の詩集をなぜ出せるのかは、当方も疑問で(笑)、推定なれど、これら若い女性詩人たちに関しては、もしかしたら、「特別措置」がなされているかもしれない(笑)。今号の「目玉」は、帷子耀(「カタビラアキ」というそうだ)。この名前は、昔、当方が高校生だった頃、「あこがれ」(爆)の投稿欄でかなり頻繁に見られた名前だが、どう読むのかは、はじめて知った(爆)。帷子耀氏は、青春時代に「現代詩手帖」に投稿していて、新人賞は取ったらしいが、早々に詩を書くのをやめて、実業家かなんかで生活していたのを「引っ張り出して」、300万円程度出させて、「集大成」を作り上げた。それの「伝説」づくりが、今号の目的である。どこといって特徴のない後期高齢者の写真があり、どうもこのヒトが、その「伝説の詩人」の写真であるようだが、このカイシャ得意のハデハデしい売り出しモンクに、「帰って来たランボー」みたいなのがある。誰が言ったか知らないが。まー、ランボーもあきれ果てるでしょう。なぜなら、この出版社、「内容」はほとんど問題にしていないからだ。アルチュール・ランボーは、十代のうちに5000行の詩しか書いてないが、そのとき、すでに評判になっていたし、無理に伝説をねつ造しなくても、自然に伝説になっていたからだ。その内実をまったく鑑みず、「青春時代に詩を書いて、詩の雑誌の投稿欄で「活躍」していた」、それだけで「ランボー」と言ってしまうのは、呆れかえるほどの無理があり、こういうことを声高に言って、編集部の意向を満足させている文筆家がいるようだが、こういうのを、「文壇ゴロ」というのだろうか?(爆)。


 確かに帷子耀氏が投稿者だった頃に比べると、劣化が激しい本誌であるが、そういう出版社になんとかぶら下がって、名前をあげたい「詩人」たちがあとを断たないのは、日本にはまだ金が余ってるのかな、と思わせないでもないのだが。地方の大きな書店でも、本誌は見あたらず、推定発行部数は、500部程度とみた。





 


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『永遠のファシズム (岩波現代文庫)』──エーコがかわいそう(★★) [Book]

『永遠のファシズム (岩波現代文庫) 』(ウンベルト・エーコ 著、 和田 忠彦 訳、2018年8月18日、岩波書店刊)

 

 本書の親本は、1998年に出版され、本書はその文庫化である。収録の「エッセイ」は、1995年、1996年、1997年に発表されている。ここでわかるのは、これらの文章が、「2001年9月11日」以前に書かれたということであり、ネット時代は始まっていたが、いまほど一般には流通していなかった。そんな時代に、イタリアの「知識人」(ネット時代にはすでに死語であるが)である(記号学者にして小説家である)ウンベルト・エーコは、「戦争」について、ああでもないこうでもないと考えている。本書の原題は、『CINQUE SCRITTI MORALI』で、直訳すれば、「五つの道徳に関する記述」であり、このさりげなさと生活に即物的な表現こそ、記号学者にして小説家のエーコにふさわしいと思える。そしてエーコは、その時、その時で、微妙に表現を変えていく。頭で考えた抽象的な教条主義ではない。それがわかるのは、同じ岩波書店から出ている『歴史が後ずさりするとき』(2013年1月刊)。これを読んだ時も、その初出がやや古いのに、ややがっかりしたものだが、それでもかろうじて、9.11以降のものである。この歴史的事件を通過し、エーコも考えを微調整している。それこそ思想というものである。『歴史が後ずさりするとき』の原題は、『A PASSO DI GAMBERO』、日本語では「エビの歩み」となる。よくエビのように、時々、さっと後退してしまう人がいるが、いつのまにか前に出ていたりする、そんなことをくりかえす「歩み」である。これこそ、記号学者としてのエーコにスタンスであると思われる。

 さて、本書は、以上のような「事実」をまったく考慮の外において編集されたものである。これではまったくエーコがかわいそうである。なぜなら、本書の文章は、特定の相手に向かって書かれたものであり、そのひとつは、つい最近、大規模な子どもへの性的虐待が暴かれたばかりの「カトリック司祭さま」である。なにが「モラル」なのか? 

 こんな本より、『歴史が後ずさりするとき』をお勧めします。訳者はイタリア人で、微に入り細にわたり、エーコ使用のイタリア語を分析しています。それも感心するばかり。

  結局のところ、ファシズムとは、イタリアの産物であり、ムッソリーニが始めた牧歌的なものを、「原ファシズム」と呼んでいるのだろうけど、それに賛成なのか反対なのか、よくわからない。

 心情的な「共感」(?)のようなものは、なにもエーコでなくても、和辻哲郞も、『イタリア古寺巡礼』のなかで、子どもファシストの、かわいらしい行進に出くわしたことを記述している。そこでは、ファシズムは、住民の暮らしに、あたりまえのように入り込んでいた。



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『「昭和天皇実録」の謎を解く (文春新書)』── 「昭和天皇実録」は新品でもBookOff(オンライン)でお値段つかず(笑)(★) [Book]

『「昭和天皇実録」の謎を解く 』(半藤一利、御厨貴、磯田道史、保阪正康著、2015年3月、文藝春秋刊)


 


 宮内庁が編纂し、東京書籍が販売している、箱入りで2000円程度のそれなりに重みのある装丁の本「昭和天皇実録」を、作家の高橋源一郎氏が小説の新作に、長文引用して『新潮』(2018年4月号)に発表していたので、検証するために、第五巻を購入した。高橋氏引用部分は、「生物学者」でもあり、粘菌だかの新種の発見者でもある、昭和天皇が、生物学者の南方熊楠の講義を受けたとある記述を中心になされているが、「実録」では、講義を受けた事実だけが記録されている。その前後の宮内庁職員の行動とともに。


 ビックスの『昭和天皇』(吉田裕訳、講談社刊)を読んでいれば、昭和天皇が、帝国主義の君主としての教育を受け、そのように行動したことは証明されているのがわかるが、「実録」は、「行動を中心」に記録されていて、それに虚偽はないのだろうが、当然のことながら、行動の裏の真理などは記録されていない。とりわけ昭和天皇は、七歳から日記をつけていたと言われるが、その日記は公開されていない。


 本書は、その、発表部分だけを「検証」したものであり、そこには、やはり、「それ以上」のものはなく、しかも、著者の勝手な思いのみ、つけ足されているように思う。つまり、「昭和天皇実録」のサポート本にすぎない。題名はなにやら、ものものしいが(笑)。


 私は、高橋源一郎が、どんな本のどんな部分を引用したのかだけが知りたかったので、「実録」などを蔵書の中に入れておく趣味はなかったので、よく利用している、BookOffオンラインへ売る箱の中に入れて送った。新品のビジネス書などは、もとの値段の半額に近いような、よい値段がつき、また、バーコードのない詩集に類でも、思わぬ値段がつくのであるが、本書は、期待して、「値段リスト」を見ると、「お値段がついたもの」のリストにはなかった(笑)。BookOffに、天皇がどうしたという意志があるわけではなく、市場原理で、本書は売れないと判断されての結果だったようだ。多くの日本の読者にとって、わざわざ買おうという対象ではないようである。(ってな、本だと知りました(笑))。



 


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『遠まわりして聴く』──「ブログやってる一般人」の感想です。(★★★) [Book]

『遠まわりして聴く』(和田 忠彦 著、2017年8月1日、書肆山田刊)


 


 本書でも言及されている吉田健一は、ケンブリッジ留学中、担当教授から「文学がやりたいのなら、母国へ帰りなさい」と忠告され、それで中退して帰ってきた。この教授の助言はまったく正しいと思う。


 本書の著者のように、汎イタリア(フランス、ドイツ、なんでもいいが)思想に染まっている学者の書いたものを読むたびに、その日本語力、教養の浅さにがっかりさせられる。やたらと、横文字の作家、思想家などを並べて、頭の中だけでこねくり回した抽象的な考えをだらだらと書き続ければ、それが文学的になにか価値のある論になるとでも思っているのか? 実際、こういう、学歴のある書き手は掃いて捨てるほどいる。よく出てくるのは、ベンヤミン、フーコー、ボルヘス……そして、著者はカルヴィーノの訳者でもあるので、当然、カルヴィーノ。


 本書は、月刊誌『國文学』(學燈社)に連載した文章を集めたもので、「あとがき」によれば、2004年から2007年のものである。すでに十数年が経過しており、これが、文学的に豊かなエッセイならそれも読めたかもしれないが、賞味期限切れの感なきにしもあらず。


 ほんとに、こんな本誰が買うのだろう? 私は買ってしまったが(笑)。というのも、別の本のレビューで、本書に言及し、中身を見ずに、「対談集」と書いてしまい、著者本人から「対談集ではありません」と言われ、謝罪の意味も込めて買ったのだった。届くまでは、多少楽しみにしていた。それは、いみじくも吉田健一が言う、「文学が我々を楽しませてくれる所以のものはその優雅、温み、又、こまやかということであって」(「大学の文学科の文学」『文学の楽しみ』所収、講談社学芸文庫)というようなものを期待していたのだ。多少はFacebook(カルヴィーノのファンの当方の「友だち申請」に快く承認していただいた)などで垣間見える和田氏は、誠実で温厚で飾らない人柄と思えたからだ。従って、この本も、届くまでは、★五つか四つかと思っていたが、これは……頭でっかちの外国思想かぶれの人々が書く文章と五十歩百歩だったので、かなり失望した。それでも、「お友だち」なので、★をひとつ増やしておきました(笑)。


 なにが悪いと言って、論じる対象の作品に対して、十分「読み切れて」いないのである。これはなぜかといえば、日本語の教養が不足しているのである。たとえば、私がよく知る、清水哲男の詩についてであるが、


 


  閉じられた目の上を


  凡庸な私の生涯が流れてゆきました


  詩歌の幾片かも引っ掛かっておりました


  もう頌かち合うこともない胡桃が収穫されてからは


  深夜の倉庫から


  国旗を立てられて滑り出てゆきました


  目を開けて何も見えないのでありました


  国破れてからの最後の半世紀は


  おおむねそのようでありました


 


  とさ。


 


 「最後の二文字にこめられた《情》を、さてどう受けとめたらよいのか」


 と著者は書くが、これは、《情》ではなく、清水得意の、「異化」である。それは、カルヴィーノが「新たな千年紀への文学の価値」のひとつとする、「軽さ」である。清水哲男の詩の特質は、この「軽さ」である。


 小林秀雄は、「優秀な学者ほど、方法論に囚われている」と言っている(講演集のCD)が、まさにそんな感じの、和田氏の文章である。


 


 ぬあんて(笑)。


 


 すみません、酷いことを書いて。でも本心なんです(笑)。ついでに、クンデラについていえば、日本語での翻訳の訳語を「固定」しているそうで、それを聞いたら、ちょっとがっかりしました。


 


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『現代詩手帖 2018年 04 月号 』──鮎川信夫が泣いている。 [Book]

『現代詩手帖 2018年 04 月号 (思潮社、3月28日刊)

 

鮎川信夫と言えば、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の訳者であり、こなれた文人である。その人の名前を(勝手に?)冠した賞が発表になっていて、そのあまりのヤラせかげんに、きっと鮎川信夫氏も天国で泣いていらっさると思われる。

授賞者がどのレベルかは知らないが、思潮社の、この賞の「作り方」としては、有名人などを候補者に配して、賞の権威をわざと高めているらしいのがミエミエの「候補者」である。

 

1,和田忠彦氏(有名なイタリア文学者)『遠まわりして聴く』。これは、対談集であって、賞の対象を唱っている、「詩論集」でも「詩集」でもない。ただ、「対談相手」に詩人の清水哲男氏がいる。(ご著者ご本人より、コメントいただき、読まずに書いてしまったことを大変恥ずかしく思っています。Facebookの知識だけで、対談集と勘違いしておりました。興味はあったのですが、購入までいたらず、まことに申し訳ございませんでした。一種の詩論集ということでした。それなら十分、鮎川賞の対象にはなるものですね。受賞作には目を通しておりますので、なんというか、一般読者としては、こういう高名な方々を、「わざと」並べているようにも見えたものですから。それと、四方田氏の感想等は、たしか、林達夫と比べているものだったと思いますが、私もかつては林達夫のファンだったのですが、たとえば、「思想の運命」などを今読み返してみると、大して重要な思想家でもないように思いました。当ブログ、どこともリンクさせてなく、ここのみで、Amazonに書いたものを貼っております。Amazonレビューはのちほど訂正しておきます。ついでながら、Amazonにございましたら、買わせていただきます。なんとなく、関心はあったのですが……(笑)。アカデミックな世界の方は、なんか敷居が高くなってしまって……(苦笑)。取り急ぎ、本文訂正にてお許しくださいませ

 

2,佐々木幹郎氏『中原中也』。これは、評論かもしれないが、すでに定評ある、岩波新書の一冊である。

 

3〜4? ほかは忘れてしまったが、思潮社で出した、詩集などが二冊以上含まれている。

 

結果は、評論としてはどうかと思われる評論集(思潮社以外から出版)と、思潮社刊の詩集が受賞となった。毎回、あまりにミエミエな候補(有名人は「飾り」なので、落選させる(笑))である。

 

賞金は、いまどき、地方の賞でも100万円出しているのに、たった50万円で、授賞者が二人の場合は、分割(爆)。

受賞式は、7000円の会費をとって、学生会館で行われる。「現場」には行ったことはないが、ただ、行った人がネットに載せていた写真を見るかぎり、ろくに食い物もないようなショボさであった(笑)。

 

いつまでこんなことが続けられるのか? 発行部数は1000部以下と推定されるが。選考委員は、北川透と吉増剛造に固定されているが、なぜその本が受賞になったかは、「ごにょごにょごにょ……」(爆)で、毎回不明である。もしかして、あらかじめ、思潮社が今回はこれと、印でもつけてあるのか? 北川透氏など、真正面から写真はまったくなくて、いつもうつむいている。よほどなにかやましいことでもあるのか(爆)?

 



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『新潮』(2018.4)──「あげ底作家」タカハシは、いまさら、どんなヒロヒトを描こうというのか?(★★) [Book]

 


『新潮』(2018.4)


 


 今号の目玉は、高橋源一郎の新連載「ヒロヒト」。


 冒頭の、藤井貞和の詩八行の引用から、『昭和天皇実録・第五』からの引用ぶん含めて、四百字詰め原稿用紙換算約五枚ぶん(原稿の全体は推定五十枚)、すべて引用。宮内庁編纂の『昭和天皇実録』について、「ここには実際何が起こったのかは書かれていない。あるいは、巧妙に削除・消去されている。あらゆる『公』の文が持つ宿命である」などと、まことしやかに書いている。宮内庁が編纂したものなど、いくら「実録」とはいえ、皇室に不都合なことなど書いてあるはずがない。いかにも反権力のふりをして、この「文学界ゴロ」、「あげ底作家」は書き始めるのであるが、すでに、2001年にピュリッツァー賞を受賞した、ハーバート・ビックス『昭和天皇(原題、HIROHITO And The Making of Modern Japan)』のなかで、アジア太平洋戦争へ、侵略への意志を持ち、北朝鮮のキムジョンウンのようなワル目立ちはまったくしないながら、むしろ、寡黙を押し通しつつ、そのジョンウンと同じように、専制君主となるべく教育され、「昭和天皇が統治した大アジア帝国の歳月は短かったが、その潜在力は巨大だった。彼はその膨張を主導し、(一九四五年以後政府が発表した公式推計で)二〇〇〇万人に近いアジア人、三一〇万人の日本人、六万人以上の連合国の人命を奪った戦争に国を導」き、かつ「戦争と降伏の遅延をもたらした」(ビックス『昭和天皇』)と指摘されている、昭和天皇=Hirohitoの、たとえ、生物学、民族学者、「南方熊楠の講義を三十分受けた」と記録されているとしても、彼のどんな「一面」を描こうというのだろう?


 以下、高橋の「ヒロヒト」は、どこかの資料から知ったのか、今度は引用ではなく、上記の、『実録』にある時間前後を、「再現」していく。その「歴史」とも「文学」とも、どちらとも取れない描写の想像力は、陳腐である。クマグス(熊楠)との、「実際はあり得なかった」会話も、以前のあげ底作品『恋する原発』の、作者と思しき父親と、息子の会話を彷彿とさせ、この人は、どんな会話を描いても、同じ調子になってしまうのだなという印象しかない。それは、『実録』が示す、昭和四年、1929年で、ヒロヒト(昭和天皇)二十八歳、クマグス(熊楠)六十二歳の時である。この後、昭和天皇は、アジア太平洋戦争へと突き進み、クマグス(熊楠)はその年、七十四歳で没する。


 小説はたらたら、たらたらと、ヒロヒトとクマグスの「交流」を描いているが、すでにして、「上げ底」の姿が見え、いったいなにが言いたいのか(笑)? 


 それより、関心を示すべきは、昭和天皇が、十一歳から書いていたとされる日記である。これは、いまだ、門外不出になっているようだ。お役所が編纂した『実録』などどうだっていい。これが見たいと思いませんか? あるいは、これをこそ、作家の想像力で「再現」すべきと思いませんか?


 今どき、文芸誌などまともな読者は買わず、宮内庁編纂の『実録』はおろか、ビックスの『昭和天皇』なども、誰も読んでないと思っているのか。作者や『新潮』編集部員すら、おそらく読んではいまい。読者をナメきったものだが、その読者も、物好きな私以外はいないと思われるので、ま、いっかーである(爆)。


 


 目玉二番手? 「新発掘」の川端康成と坂口安吾の「掌編」。このような作者の「掌編」が発掘されても、なんらこれらの作家の価値に変化を与えるものとも思えないし、それ以上に、関心を持つ読者もいないと思う。


 


 同じく二番手と思われる、保坂和志の短編「ハレルヤ」(推定五十八枚程度)。


 このヒトは、「師」の小島信夫と同様のスタイルをとって、日常の些事をだらだら、だらだら書いていくが、しかしそれが意味があるのは、その些事を見つめることによって、哲学的な思念がなされなければならないが、このヒトのバヤイ、つきあって読んでいくと、ただの些事のままで終わって、「え?」となる(笑)。このヒトの頭のなかを占めているのは、この小説(?)の書かれた時点なら、引っ越し先の家を、数百万年安く買えたらなー、である。そして、テーマは、愛猫「花ちゃん」で、この猫は、生まれたての頃、片目の見えない状態で拾われ、十八年と何ヶ月か生きて死んだ。「猫には一匹一匹、神さまがついている」というのが、作者夫妻の思いであるが、それなら、なぜ、年間何万匹、何十万匹の殺処分が行われるのか? これらの猫たちの神さまはどうなっているのか? 作者は、そんなことにはまったく思い至らず、ただただ、自分が保護し、育てた猫「花ちゃん」だけが問題なのである。ああ、そうですか(笑)。


 


 あと「埋めグサ対談三つ」、そのどれも、メンバーにまったく興味なしでスルー。おわり。表紙がピンクだったんで、買ってしまったんだなー(笑)。


 


 


 


 


hirohito.jpg




 


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『アジュモニの家』細田傳造新詩集(思潮社、2018年3月刊)──「細田傳造」以後に詩を書くことは可能か? [Book]

『アジュモニの家』細田傳造新詩集(思潮社、2018年3月刊)──「細田傳造」以後に詩を書くことは可能か?



意表を突く装丁。意外にも、ガーリーな(笑)、薄いパープルが主体の絵と題字。いかついジジイの路線かとおもいきや、突如ガーリーになって、ジジイがガーリーになれば鬼に金棒である。


 


書肆山田から出した詩集二冊が、二つの賞(中原中也賞、丸山薫賞)を取って、さて、このまま、自己模倣に陥るのかと「期待」して「見守っている」と、確かに前詩集(第四詩集?)の『かまきりすいこまれた』では、その気配もあったが、この詩集では、氏の「方針」はかっちり決まり、「あっちの方へ」シフトした。それは、鬼に金棒といえばいえる世界。だいたい、あーた、「在日」(この詩集にそういうマスコミ用語みたいな言葉は出てきません。たしか、Amazonのレビューで誰かが書いていただけですが)をほのめかせれば、詩の世界では、百点満点中、三十点はいただき。しかも、「その世界」を堂々と、「差別的視線」も逆手に取りというか、逆に大いに利用して、変態もなにもかも取り込んで、しいていえば、ヒエラルキー形成が方針であるかのような「思潮社」さえ、プレデターみたいに呑み込みかねないパワーを噴出させている。きっとこの詩集でも、なんらかの賞を取るだろう。残っているのは、高見順賞? 萩原朔太郎賞? 「歴程」メンバーのようだから、三好達治賞も不可能ではない。花椿現代詩賞も。今、かっこつけたり、見栄張ったり、観念の世界に浸ったり、メッセージを込めたりして詩を書いている人々、このジジイに勝てますかな? このジジイは、全身が詩なのです。そして、本詩集によって、それを証明してしまったのです。冒頭の「三軒家」ものっけから爆笑で、二十二編どれも面白いんですが、とくに、「巻尺」の、


 


  原っぱで


  草を見ていたら


  肩を叩く音がする


  身を捩ってみれば機蟲(ばった)


  機蟲が囁く「この草を買って」


 


ばったが売りつける「草っぱら」=墓地? ふたつも墓地を買ってしまって、家で怒られる。しかし、本居宣長もプライベートとおおやけと、ふたつ墓地を持っていたからね。


 


「軽蔑」もすきだ。孫と思われる、「たける」が、コリアン・エアーの美人アテンダントに「かわいがられ」、「半島」にかかわるすべてを軽蔑しているらしいふぜいを理解して書いてしまう(このヒトはなんにでも感情移入できる才能を持ってるんです。しかも、頭のチョーいいんです)。


それもよかろう。しかし、私も、生まれて初めて乗った飛行機でパリへいきなり行ってしまったときの、そのエアーは、コリアンだった。夏目雅子ばりの美人アテンダントばっかりだった。


そして、ここに出てくる「哀惜(はん)」もそれなりに理解している。映画で、「はん」がテーマのを見て当時、映画評を西日本新聞に書いたものだ。題して、「『はん』とは超えるもの」。あの時評はわれながら、よかったと思っている。


 


ついでながら、わが故郷(丸山薫賞を出している、豊橋市ですが)の実家もある町内ですが、朝鮮半島から来た人々がいて、その家族って、いったいいつ頃から来たのかといえば、まだ半島が分裂していないときで、曽お祖母さんのときと言うんだから、これはもう欧米の考え方なら、純粋日本人以外のなにものでもないんだけど、やはりその家系の、ルーツをちゃんと守っておきたいのかなと思う。しかも、祖母さんは、「故郷」なんぞへは帰りたいとは思ってないという。だってうちの町内で生まれたのだから。って、わけで、細田氏が、この詩集で書かれた世界は、もう手に取るようにわかります(初代BFの家も、どぶろく製造していたし)。


 


しかし、いくらなんでも、こうは丸裸にはなれない自分なので、「理知的な作風」に方向転換することにします(笑)。


 


さて、このヒト以後に、詩を書くことは、可能か?


 


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『新潮 2018年 03月号』──週刊誌的シュミが以外のなにがひきか?(★) [Book]

『新潮 2018年 03月号』( 2018年2月7日刊、新潮社) 

 

 本誌は店頭で手にとって、いかにもあざとい週刊誌シュミで呆れて、すぐにもとに戻した。しかし、先行レビュアー(Amazonの)の記事を読めば、ほんとうに、週刊誌シュミで、今度「その部分」をじっくり読んでみようと思った。「そんな事実」は、知らず、その「著者」の本は多く持っていて、かなり親しんでいた時期もあったので、興味津々であった。この表現は不謹慎であるか? 内容は人の生死に関わることである。しかし、それを、公開日記として、いくばくかの値段のついた「商品」として売っているのである。そういうことを、「晒して」いるのである。まず、私ならこうした原稿依頼は、拒否するが。

******

事柄の詳細は、「5ちゃんねる」にもあって、それで事実はわかったので、それ以上、この件への関心は失せた。ゆえに、本誌を再び手に取ることもない(合掌)。


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西野亮廣著『革命のファンファーレ』(2017年10月、幻冬舎刊)──本書の著者を知らないが……(★★★★★) [Book]

私はテレビを見てないので、本書の著者を知らないが、書かれていることがすばらしいので、つい書店で買った。字数の少ない(笑)本であるが、おそらく、今後、この著者のいう通りになっていくだろうし、著者の勧める処し方が必要になってくると思われる。とくに、自分で仕事は創り出さねばならない。それは、建築家の安藤忠雄氏などの、一流の仕事人がすでに言ってることではあるが。著者のいう、「情報革命」への対応は、老いも若きも、サバイバルのためには必須だろう。


10月発売で、すでに400人以上のレビュアーがいるのは、私の記憶では、村上春樹の小説より多いので、本書はすでに、10万部の売れ行きを超えていると思われる。


否定的意見も散見されるが、これは、本書を読めば、著者の望むところなのである。賛否両論こそ、売れる理由なのである(笑)。ほんとうに否定したいなら、無視をオススメします(笑)。

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