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第三詩集『Pale Fire(青白い炎)』のご案内 [Book]

そうこうしているうちに、第三詩集『Pale Fire(青白い炎)』が出ました。よろしく〜。



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角田光代訳『源氏物語 上 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集04) 』──ギョーテン!(★) [Book]

角田光代訳『源氏物語 上 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集04) 』(2017年9月8日、河出書房新社刊)


 


 好意的なレビューが多い。その好意的なレビューの何人かの方のレビューに、「Amazon VIneメンバーによるレビュー」というマークがついている。私もVineメンバーなので、それが何を意味するかわかる。それは、「試供品として、レビューを書くことを約束に、ただでもらった」ことを意味する。河出書房新社は、文学全集の一部を、「試供品」として、「ただで配っていたのである」(笑)! だいたい、本の「試供品」はあっても、ビジネス本などの、あまり売れなさそうな本が多かった。え? そんなものもあったの? と思うような、電化製品とか、そういうものもある。しかし、それは、「あっというまになくなっている」。私などが「その試供品のページ」を覗く頃には、ろくなものはないので、最近は、とんと見なくなった。「ただより高いものはないし」。


 たまたま本書について何か書こうとかと、レビューを見ていたら、上記のような状況を知ったしだいである。「プルースト」訳といい、編集者には受けがいいという角田光代という「大衆作家」を、それほど、谷崎潤一郎並の、「大作家」に祭り上げたいのか?


 瀬戸内寂聴訳でさえ、この「底本」はなにかしら?と訝った私であるが、ただ意味がわかればいいというわけではないだろう。「訳」であるからには、オリジナルな「雰囲気」も伝えなくては。オリジナルは、むしろ、バージニア・ウルフのような近代的自我を抱えたようなアンニュイな文体の作者である。


 大野晋は、『古典基礎語の世界』で次のように書いている──。


 


「『源氏物語』は同じ古文といっても『徒然草』の何倍もむつかしい。『枕草子』よりずっとむつかしい。/注釈書でも今もって的確に意味の書いてない言葉がある。そればかりか、分かったつもりでも読んでいた言葉が実はよくわかっていなかったと気づくことがある。紫式部がその言葉に込めていた重要な意味を、少し極端にいえば、現代の源氏学界の常識がきちっと捉えずに見過ごしてきたと思われる場合もある。この本で扱うモノという言葉もその一つである。」


 


 このようにむつかしい『源氏物語』は、書かれてすぐに、ずっと庶民に愛読されてきたわけではない。本居宣長が「発見」し、かつ「注釈」を加え、評価しなかったら、これほどの「ポピュラリティー」を獲得していたかはわからない。


 


 ただ「スジ」を追うというだけなら、こういう訳にも多少意味があるのかもしれないが。いやしくも、「日本文学全集」と銘打った「全集」の一巻なのである。文学的な匂いはまったくしない文体である。だいたい、この、池澤夏樹個人編集という、河出書房新社の『日本文学全集 全30巻』も、おかしな全集である。文学ではない「古事記」からはじまって、詩や短歌などは、池澤や穂村弘という、その世界の誰もが認める大御所とはいえないような人々が選をしている。「ノーベル賞」の候補にあがったようだとのウワサのあった、海外でも人気のある日本を代表する作家、安部公房も入ってないようだし。「基準」がまったくわからない、「個人編集」の「全集」である。


 


 しかし、Vineで、「試供品」として配るなんて、確かに好意的なレビューを、ある個数集めることはできるだろうが、「文学」の会社がそれをやってしまうなんて、営業だかなんだかは、よいアイディアと思ったかもしれないが、印象は、世も末だな、という感じである。


 


 ちなみに、どうしても「現代語訳」で読み通したいなら、Kindleストアにある、与謝野晶子版をお勧めし、かつ、森林太郎(鴎外)の、「序文」(なぜ「現代語訳が必要か、書かれている)もお勧めします。与謝野晶子は、角田光代よりは、だいぶ昔の人間ではあるが、その程度の「現代語」でも十分、「今」な感じは伝わってくる。第一、与謝野訳には、文学が伝えうる、微妙なニュアンスを省略せずに訳し込んでいる。


 


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河出書房新社版『日本文学全集 全30巻』 [Book]

しっかし、池澤夏樹個人編集の「日本文学全集」って、ものすごい文学全集だな。古事記(文学かよ?)から穂村弘まで。安部公房はないみたいで。源氏物語は、角田光代訳で(笑)。

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『絶景ノート』──最果タヒと根っこは同じ思想(★★★) [Book]

『絶景ノート』(岡本啓著、2017年8月3日、思潮社刊)

 

 著者の手になる装丁も、旅のノートのように、「走り書き」がデザインされ、内容も、旅のなかで出会った「絶景」からインスパイアされた言葉たちと見た。いいなー、青春って。なにより言葉が新鮮である。「おとなたち」は、それに痺れて、(萩原朔太郎)賞をあげたのだと思う。しかし、果たして「おとな」は、感心はできても満足はできるのか? 国内を青春18切符でまわった著者が、格安航空を使って東南アジアの国々に、三週間(?)ほど旅した。そのとき、できた詩群である。貧しい風景にも感動し、「ぼくたち」の未来や過去に思いをはせる。ここには、「ぼくたち」しかいず、語りかけるのは、同世代か、あるいはそれより年下の世代である。

 多くの年寄りは、もうわしらには書けんのーと諦めるのか? ある意味、汚らしい老人など切り捨てられているというか、捨象されている。「意匠」は異なるが、読み進んでいくと、今売れっ子の、最果タヒとまったく同じ思想であることに思い至らされる。

 私はむしろ、あらゆるものに、老残を見る、ベケットの詩群が恋しくなる。

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『印税で1億円稼ぐ』──この人の著書は、字数から言ったら冊子レベル(★★) [Book]

『印税で1億稼ぐ』(千田琢哉著、 2013年11月8日、あさ出版刊)

 

本書はつい最近、福岡ジュンク堂で購入したのであるが、2013年刊の、一刷(初版)だった。本書に関しては、皮肉にも、増刷はかからなかったようである(笑)。そして著者の、書籍リストの出版社であるが、岩波書店とか講談社とかいう、「誰もが認める」大手にして、内容もあるレベルを維持している出版社はひとつもなし。それもそのはず、リストは見ればわかるとおり、水増しである。確かに、茂木健一郎氏や齋藤孝氏など、「ほんとうに売れていてかつ有名」な著者も、いろいろなところに義理があるので、いろいろな出版社から似たような本を出してはいる。しかし、一ページの字数がここまで少ない本はないと思う。本書で78冊目とあるから、とおに100冊は超えてらっしゃるかもしれませんが、字数からいったら、まっとうな本の三分の一ほど。四百字詰め原稿用紙にしたら、百枚あるかないか(笑)。だって、右ページは「章題だけに使われている」(笑)。

 しかし、業界の情報は参考になることも載っている。この著者の名を、誰もが知っているとは言い難い(笑)。文化人にも入らないだろう。こんなのを「作家」とか呼ばれてもね〜。幻冬舎の社長の見城徹氏が豪語されているように、「白紙の本だって売ってみせる!」。ま、このテイより、多少ましな。著書と呼ばずに、冊子と呼ぼう(笑)。





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朝吹亮二著『密室論』 [Book]

朝吹亮二著『密室論』(2017年7月、七月堂刊)

 

1987年から1989年の間に15回に分けて書き継がれた「一篇の長編詩」の復刊である/94ページにわたり行替えのない言葉のつらなりは400字詰め原稿用紙にして110枚程度と思われる。行替えはあるが最初から最後まで切れ目のない小説としてオーストリアの作家トマス・ベルンハルトの作品を思わせるが本作はスラッシュのようなものでたまに区切られているがその区切れもあるページまでいくとまったくなくなってくるがまた現れる/「ではなかった」で始まり「か」で終わる/一応/野村キワオのキワどいエロものよりよほどエロスに関してとことんまで追求しているように思われる/どこを切ってもエロスという血が噴き出し密室をいっぱいにする/その密室はブラックホールなのかどうかだとしたら光も出ることはできない/その絶望の闇のなかで言葉だけがアマテラスなのである/「火の惑星がいきかうおもい放物線で脚がひらかれてゆくふつふつと粥が煮られてゆく脚のあいだのちいさくておおきな突起すっぱくてあまい突起やわらかくてかたい突起それは小骨ではない小骨ではないけれど骨のうえの紅スズメだ紅スズメの木の実だ殻のむけた胡桃だ小骨の女はしなやかに欲情をためこむ水をたたえる鎖骨しずかな海の肋骨ふきあふれ背骨あくまでも硬い恥骨あくまでもうすい恥骨あからさまな視線をためこんで小骨はしなやかに湾曲する沈没した海賊船の竜骨」延々続いていって切りがない(笑)/しかし/リズムはすばらしいスピード感もよい/この詩は1989年7月をもって終わるが同年末私は文芸誌『すばる』に「デビュー作「男はそれをがまんできない」を書くことになる/という「我田引水」になってしまった(笑)/そう/この方とは『現代詩手帖』の「新人特集」でごいっしょしていたのだった/30年後こんなふうに遭遇するとはね/これは「復刊」ではあるが2017年の傑作である/と/記しておかう/もしかしたら『すばる』に発表した拙作4作も傑作かもしれない復刊されないかなあ(笑)/あ/カルヴィーノの掌編「モンテクリスト伯」という作品もちょい思い出した/本詩集を読めば行替えとは反動であるなどという考えも思い浮かぶ/一滴の冬/あ/本書もまたAmazonといふ「三途の川」では扱っておらず(今は扱っているようだが「品切れ中」(苦笑))e-本で購入しました


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荒川洋治著『北山十八間戸』 [Book]

『北山十八間戸』(きたやまじゅうはっけんこ)荒川洋治著(気争社、2016年9月初版、本書は、2016年10月刊の二刷)


 


 


 北山十八間戸とは、鎌倉時代に、奈良に、忍性(にんしょう)という、真言宗系の僧によって作られた、ハンセン病などの重病者(非人、貧者を含む)を保護した施設である。


 本書の帯にあるように、「(表題作他)保元の乱の母子像、竹島問題と李朝の記憶など、現実のなかに隠された新しい〈世界〉を映し出す、精選16編」。


「現代詩作家」による詩集である。他の多くの「詩人」と、自らを分かつため、「現代詩作家」を自称されている。


「他の多くの詩人」には、このような「詩」は書けまい。ここには、ひとつひとつ選ばれた言葉が、垂れ流しでなくある。


 歴史の、見過ごされた時間の、ほんの小さな瞬間さえ逃しはしない。ときに、陰惨な瞬間。おそらく風景にさえなれない風景──。


 


 夜空の枝は


 空の外側にも よく群れて甘くひろがり


 直列していく


 


 (「北山十八間戸」)


 


「夜空の枝」とは、どんな枝なのか?


「空の外側」とは、どこなのか?


「よく群れて」とは、どんな状態なのか?


「甘くひろがり」とは、どんな状態なのか?


「直列」とは、乾電池のつなぎ方でないとしたら、どういう状態なのか? 「直列」しているのは、「夜空の枝」なのだろう。だとしたら、「よく群れて甘くひろがり」かつ「直列している」とは、どういう状態なのか? そのような状態と、真言宗系の、正確には、真言律宗の僧、忍性と、どういう関係にあるのか?


 


これらがほんとうに、「現実のなかに隠された新しい〈世界〉」なのだろうか? 


 


「切られようとして」いる四人の子どもは、保元の乱の登場人物らしい。


 その様子を切々と綴る。しかし、リアリズムの文章ではない。詩である。かなり難解な書法である。帯に説明がなかったら、多くの凡庸な読者にはわからない。


「現代詩作家」の、おそらくは、「現代詩」なのである。


「詩人」ではない。「詩人」はどこにもいない。職業でもなく、「現代詩作家」と自称する矜持。それを持っての作である。こころして読め!


 ……っていう、作品なのかな〜? である(笑)。


 


 しかしここには、たわめた日本語はあっても、想像力は皆無である。地をのたうっていく作風。これが「新しい〈世界〉」だったら、陰惨である。なにしろ、ここには、竹島や李朝はあっても、「日本」しかない。世界が、地球が、宇宙が、日本だけだったら……という世界。たてまつるもよし、驚嘆するもよし。


 しかし、寂しい。おそろしく寂しい。


 


 本書は、Amazonという「三途の川」では扱っていない。e-本で購入しました。ハードカヴァー、スピン付きのりっぱな本である。83ページで、1850円+税。いったい、どんな読者に向けられた本なんでせう? 好奇心の強い私は買いましたが(笑)。


 


 



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最果タヒ『愛の縫い目はここ』──読者は最果タヒの顔を永遠に見ることはできない、女神を顔を見ることができないように。(★★★★★) [Book]

『愛の縫い目はここ』(最果タヒ著、 2017年7月27日、リトル・モア刊)

 

 ここには、固有名詞はほんの少ししかない、それはたとえば、「スターバックスの詩」という詩の題名に使われている言葉だ。この短い詩の、〈初出〉は、『SPUR』2017年3月号(集英社)で、私などは、原稿料はいったいいくらだったのだろう? などと「下世話」なことが気になる。この、たった8行の詩には、ほんとうは、もうひとつ、「固有名詞」が「隠されて」いて、それは、

 

 感情とはなんだ。セミの構造は折り紙に、よく似ていた。

 

 という一行にある。「折り紙」とは、Origami、スターバックスの商品のひとつで、「組み立てて」、マグカップに載せ、お湯を注ぐと簡単にレギュラーコーヒーができる。おそらく、この「折り紙」は偶然ではないと思われる。Origamiとアメリカ人が命名したこの商品名は、アメリカの小学生の、スペルコンクール、Spelling Bee を題材にとった映画でも「出題」されていた、日本人には簡単だが、アメリカ人には難しい言葉、origamiなのだ。

 

 最果タヒの詩には、難しい言葉、用語などは出てこない。小学生でも読める。そして、「愛する」とか「気持ち悪い」とか「生まれる」とか、そういう、ほとんど原初的とも思える感情しか出てこない。しかし、これは実は、チョー難解な詩群だ。なぜなら最果は、高学歴の、よくは知らないが、なにかの研究者? 博士? で、一見通俗的な感情を掬いながら、なにか、言語の向こう側にある世界を表現しようとしている。そういうエリート世界などまったく知らない、フツーのオバサンである私は、実を言えば、これらの詩群は「気持ち悪い」。まるで、地球の日本人の言葉を使用して、「宇宙人」が書いた詩のようだ。でも(最果には、接続詞はほとんどない。接続詞は、人間の気持ちを表すのに)、「読める」。本書は、最果タヒ詩集の三部作の完結編だそうで、おそらくこの後は、まったく違う詩集を提示するのではないか? 今まで書いていた対象など、置き去りにして。

 

 最果タヒの詩集は、Amazonでもベストセラーで、おまけに本書には、帯に、谷川俊太郎の、すばらしい言葉が付いていて、まさに鬼に金棒の詩集となっている。

 

 讃美するも否定するも、とにかく、いま詩を書いて発表している者は、この「門」をくぐらねばならない。そして、その際は、「あらかじめ希望を捨てよ」と申し添えておくのが、先に滅びていく人間の、残酷さによく似たほんのひとふりのやさしさなのかな。



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『文芸 2017年 08 月号 』──目玉、「新連載 最果タヒ」は……(★) [Book]

『文芸 2017年 08 月号 』(河出書房新社、2017年7月7日刊)


 


(雑誌名は、『文藝』と旧字だが、Amazonは新字表記している)


 


「季刊」なのに、あえて「連載」には、なんの意味があるのか? 向こう何回かの「人気作家」の囲い込み? その「一回目」、「パパララレレルル」は、「パラレル」をピコ太郎っぽく言ってるだけ(爆)。しかしてその内容は、昔の大御所の「連作」風小題のついた、詩にしては、俗っぽく、小説にしては破綻。こらえ性がなく、権威主義の、一般読者向け。


 「現代文学地図」は、今の「有名作家」と「文藝」が決めた、百何人の作家を、傾向などによって四次元グラフ風グラフのなかに、鏤めている。このようなものを、金を出して見ようという読者は、どれだけ、ヒマと金がある人々なのだろう?(あ、私は当然立ち読み、1分です(笑))



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『新潮 2017年 08 月号』──文芸誌の終わり(★) [Book]

『新潮2017年08月号』(  2017年7月7日、新潮社刊)

 

 かつては作家志望者のあこがれであった、大手出版社の文芸誌。採算は取れなくとも、それを持っているかどうかで、出版社のハクもついた。しかし、すでに、集英社の『すばる』は、『現代詩手帖』と化し(笑)、ジュンク堂福岡店の店頭にはない。手に取った記憶では、内容まで、「現代詩手帖」のように、詩の特集があり、詩人たちが朗読について鼎談をしていた。『群像』の今号の「目玉」は、『新潮』を生息地としていた古井由吉が、河岸を変え(?)、連載を始めたことで、冒頭はその作品だったが、日本人作家お得意の「連作」形式であった。つまり、短編をいくつか重ねて、「ニュアンス」で長編にしていこうというやつである。構成を熟考する必要もなければ、キャラを作る必要もない。「大御所」「有名作家」を呼んできて、なにか具につかないことを書かせればいい。それは、短編にもいえて、本誌冒頭の川上未映子の、どーでもいいような世界を、凡庸な文章で書いた作品にもうんざりである。本誌で「なにかありげな」浅田彰、東浩紀、千葉雅也の鼎談は、よその場所で行われた、「浅田彰還暦記念」(笑)の鼎談を、一部割愛して掲載したものである。題名が、「トゥルースなんたら」とあったので、私などは、ドゥルーズと読んでしまって、もう少し読みでのあるなにものかかしら?とやや期待した。この三人は、最高学府で、おフランス現代思想を専攻し、留学もできて、そこで、日本人の一般読者より先に「現代思想」に触れたのを、日本向けに「書き直し」てブームになった方々である。それは明治維新の外国文学輸入に、少しは似ているかもしれない。

 連載、コネ吹……もとい、朝吹真理子のだらだら文章にもうんざり、オバマが広島を訪れたことを、契約結婚して子孫を残そうとしている「夫婦」?の一人が、そんなテレビだかなにかを見ていろいろもの思うのでなにか、思想とか政治的なことを語っていると思ったら大間違いだ。この作家は、1984年生まれで、33歳ぐらいになるのだが、まったく同じトシの男性で、Facebookで、作品を発表し、かなりグレているやつを私は長い間「観察」(笑)してきが、才能はむしろ、その男に多くあると感じられるが、職もなく、しかし実家はそれなりに支えてくれているほど貧しくはないのだろうが、ケンカをしては豚箱に入り、精神病院にも入っていたようで、最近は念願の童貞も捨てたようだが、どーだろうー? 彼は、彼があこがれる無頼派作家、ブコウフスキーのように無事、才能のきらめきのなかで「夭折」できるだろうか? 

 あ、そういえば、かつては純文学作家だった、佐藤正午さんが、デビュー34年でやっと「直木賞」をお取りになったようですが、彼には、「岩波書店」という強い味方もついていたようであるが。果たして、そんなふうになれる道ももはやあるようには思えない。

 文芸誌は、既に名のある人か、話題の若者の、巣窟となっており、一度つかんだチャンスはゼッタイに放しそうにない必死さが、凡庸の文章の行間に滲んでいる。ついでに言えば、季刊の『文芸』は、判で押したように、最果タヒの連載開始であるが、この詩とも短編ともつかない短い文章の寄せ集めは、なるほど、「映画化」も可能であろう(笑)。

 つまりは、誰も買わない。誰も読まない。読んでいるのは、作家志望者ばかり(含む自分(爆))。もう、こういう場所に一度や二度、載ったからといって、いったい誰に、「ねー、買って買って!」と言えばいいのか。もー、いいよ。自分で出版社やって、少なくとも、小林秀雄や河上徹太郎が、書いていた基準のものへ少しでも近づくことをしたいだけだ。

 トランプ大統領の前で、「ハローさえ言えなかった」と、アメリカのメディアで呆れられた、どこたらの首相夫人のような、ひどいレベルの文学状況である。あ、ついでに言えば、「サブカル」も「オワコン」である(笑)。




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