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【詩】「地獄でのひと季節」 [詩]

「地獄でのひと季節」

 

Jadis, si je me souviens bien, ma vie était un festin où s'ouvraient tous les cœurs, où tous les vins coulaient.

 

 かつて、もしぼくの記憶が確かなら、ぼくの生活は心という心が開かれ、葡萄酒という葡萄酒が流れ出る饗宴だった。

 

さて。上記の行を、小林秀雄はこう訳す。

 

「かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴(うたげ)であった、誰の心も開き、酒という酒はことごとく流れ出た宴であった。」

 

そして、中原中也も堀口大学も金子光晴も、おおやけの形では、この部分を訳していない、というか、堀口がごく少量の部分を訳出している以外は、小林秀雄以外の、歴史に残る詩人、翻訳者の、流通している「Une saison en enfer」の訳を見いだすのは難しい。

なぜかというに、この「詩篇」は、あまり詩らしくないからだ。果たして、これは「詩」だったのか? 確かに、なかには、Mauvais Sang とか題名のついた「文章の断片」が含まれてはいるが。

私は、この時のランボーを思わせる年頃の少年を思わせる声が、「Une saison en enfer」を朗読しているのを、audible.comで購入してたまに聴くが、まるで、ランボーなのである。ほかのフランスの詩人たち、エリュアールとかアポリネールが自作を朗読しているCDも聴くが、みんな詩に酔っているような朗読のしかたであるのに対して、この、ホンモノのランボーでもない青年の声は、プロの朗読者であることも考えられるが、まるで、ぶっきらぼうに読んでいる。そして、その読み方に、内容の方もぴったりなのである。すなわち、

詩的な言葉はなにもなし。

小林秀雄は、いち早くそれに目をつけた。

ロマンチックなものは皆無、哲学的な暗喩も皆無、

ひたすら、なにかおのれの、かつての生活を顧みているだけの

散文の断片。

 

そうだ。

 

かぎりかく、だるさの深みへ沈んでいく──。

 

ランボーくんよ、あたかも、もうひとりのランボーを呼び出そうとしているかのようではないか。つまり、

 

シルベスター。

 

スタローンの、「ランボー」をさ。

 

そうさ。そのランボーも

 

Jadis(かつて)

 

戦場で(en enfer)、

 

ひとつの季節を過ごしたものだ。

 

(顔は直してしまったけどナ(爆))

 

(外野:これが詩か!)


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『新聞記者』──安倍という言葉を出さなければ絵に描いた餅(★★★) [映画レビュー]

『新聞記者』 ( 藤井道人監督、2019年)

 

 すでにマスコミで報道された、国民の誰もが知っている「スキャンダル」に想像を加え、官僚の世界を描きながら、暗にその陰には政府があり、それは「上」という言葉で表現されているのみである。

 題名通り、新聞記者の仕事を描いているが、その現場の様子は、紋切り型である。だいたい、新聞記者なんて、新聞社の社員にすぎないのだから、いくら正義感を持っても、できることなどかぎられている。ま、日本のジャーナリズム界ではね。イギリスのジャーナリズム界は、もっと力を持っていて、プーチンの野望を追い、すべて実名で、本を出した、特ダネをよく出している「ガーディアン紙」のモスクワ支局長がいる。

 そう、もし少しでも、現政府なりを告発したいという目的があるなら、フィクショナルな状況、役名を使っても意味がない。すべて実名でなければ。そのとき、作り手の気概も、安倍政権の反応も、少しは見えるのではないか。

 アメリカ映画ではすでにそれはあたりまえのお約束になっているので、トランプ告発でも、ニクソンでも、それから、最近の、サダム・フセインのイランが大量破壊兵器を持っているという「ねつ造事件」を題材にし、「大手」ではない新聞社の新聞記者がそれを暴いた映画でも、すべて「実名」であり、起こったできごとは、「勝手に変えられていない」。それは、このテの、映画、小説の、たとえエンターテインメントとはいえ、お約束である。それを、井上靖ははずしてしまった。それを、大岡昇平は告発している。それと同様に、本作も、「政権の悪」を描きながら、「似たような事件」に尾ひれをつけてしまって、文字通り、ミソクソにしている。これではダメだ。スピルバーグのような超一流と比べると、エンターテインメントとしても、かなりレベルが落ちる(ペンタゴンペーパーという事実は変えず、人物の造詣と構成で、エンタメを形づくっている)。当然、安倍政権は痛くも痒くもない。

 だた、評価できるのは、主役の女性新聞記者を、韓国女優のシム・ウンギョンにしたことで、彼女の持ち味の生硬さが、新聞記者という仕事のリアルさを表現し得ている。日本人俳優とは、演技の質がまるでちがう。それから、松坂桃李以外は、ほとんど顔が知られていない俳優を使い(海外では、国内ではおなじみの俳優も知られていないと思うが(笑))、淡いブルーグレイを基調とした「背景」とともに、ストイックな雰囲気が出て、やはりリアルさを出すのに成功している。それで多くの観客が騙されてしまったのか(笑)?

 さらに言えば、映画で、「新しい情報」を出さなければ、学芸会の域を超えるのは難しい。


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【詩】「Fahrenheit 451、あるいは、突然トリュフォーのごとく」 [詩]

Fahrenheit 451、あるいは、突然トリュフォーのごとく」

 

まるで驟雨のように

駆け去っていく

雨の予報

天は一滴の雨も恵むつもりはないようだ

Fahrenheit 451 つまり摂氏約233度まで

待たなければ

紙は燃えない

渇いているのは

何への?

ひと?

本?

記憶せよ!

ホメロスのように

稗田の阿礼のように

突然の空白が

なつかしい映画監督を

思い起こさせる時

スペインではユーカリの

乾いた木が燃える

ハッピー・バースデー

トゥー

ミー

 

 

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『ゴールデン・リバー』──センスよければすべてよし?(笑)(★★★★)(ネタバレ) [映画レビュー]

『ゴールデン・リバー 』(ジャック・オーディアール監督、2018年、原題『THE SISTERS BROTHERS』)

 


 あのひと、ルトガー・ハウアーに似てるという場面(今から考えると、どういう場面だったか、思い出せない(笑))があり、出演者をYahoo!映画で見ると、やはり、ルトガーさま、だった! 御年75歳(涙←なんでー(笑)?)、かつてのアンドロイド俳優も、エルマノ・オルミ監督、『聖なる酔っぱらいの伝説』で、名演を見せたものの、監督、役柄、(おそらく)マネージメントに恵まれず、オランダ人という「ハンディ」もあってか、こんな映画の脇役(もっと以下?)に落ちぶれ果てていた……。あ、映画と全然関係ありませんね(爆)。


 


 本作ですが、いやー私は、おフランス人(監督)が何を考えているかは、まったくわかりませんね。ついでに、ベネチア映画祭の選考委員たちも。まー、おフランス人、イタリア人というのは、「雰囲気」で思考してますね。「雰囲気」は、それなり、「脱構築ウェスタン」なんですが、かなり違うものとなってます。だいたい、フランス人とウェスタンというのは、相容れない概念である(笑)。そういう映画ではなく、なんつーか、原題(『シスターズ(名字)ブラザーズ(兄弟)というシャレみたいな題名)どおり、兄弟のハナシなんですね。荒くれの殺し屋兄弟が、「提督」(ゴールデンラッシュ時代の土地の支配者)の命令で、「化学者」を追う。それを「見張る」者がいる。という四人の図式。


 


「化学者」は、いちいち川を「さらって」砂金を探さなくても、川の水にある物質を投入して黄金を「浮かび上がらせる」薬品の化学式を発明している──。


 


 ほぼ焦点は四人にあたり、ウェスタンにはあるまじきアップ多様で、舞台劇のような作りになっており、四人の俳優の演技合戦なのであるが、最後、殺し屋兄弟が、「ママ(実母)」の住んでる実家に戻り、ママの手料理やらなにやらで慰められ、しあわせに暮らしました〜(たとえ一時的でも)、そういうハナシになっているので、お口あんぐりでした。だから、「シスターズ兄弟」という原題がぴったりなのに、「ゴールデン・リバー」なる、さも、ゴールドラッシュのウェスタンであるかのように「偽装」していますね、客を呼ぶために。


 


 四人のおもな人物では、美形フェニックス、ギレンホール、華奢な化学者役のアーメッドのなかで、ひときわ無骨ででかく、ブオトコ(なんでフェニックスと兄弟?)のジョン・C・ライリーが、いちばん、かっこよくすてきに見える作りになってます。さすが、おフランス人(監督)(爆)!


 


 最後のクレジットが、音楽もセンス抜群で、そうか、そういう映画だったのかと思わせ、センスがよければすべてよし、の世界かな?と……(笑)。おそらく、ベネチア映画祭銀獅子賞は、このおかげと思われる。



 


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【詩】「Char、そして雨」 [詩]

「Char、そして雨」

 

Hypnos saisit l'hiver et le vêtit de granit.

L'hiver se fit sommeil et Hypnos devint feu. La suite appartient aux hommes.*

 

ヒュプノスは冬を捕まえ冷たい花崗岩の服を着せた。

冬は眠くなりヒュプノスは火になった。そして彼らは人間に属した。

 

そして雨。

雨は神話では語られず

東洋の湿度のなかで

眠りの役目を果たす

癒しと

かの国はスペイン

海の向こうにはイングランドがひかえ

訪れたことなど遠い昔のように

 

なにがひとを癒すのか?

なにが神を癒すのか?

なにが物語を癒すのか?

 

それは解体という名の

神の逃亡

 

きみはつぶさに見るべき

立ち直るために

 

 

******

 

* RENÉ CHAR 'Feuillets d'Hypnos'  ("Fureur et mystère"

 

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『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』──ジェイク・ギレンホールの映画でした(★★★★★) [映画レビュー]

『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム 』(ジョン・ワッツ監督、2019年、原題『SPIDER-MAN: FAR FROM HOME』)

 

 いやー、ジェイク見たさに行って、「案内」には名前がちっこくしか出てないので、ほんとうに出るのか心配してましたが(笑)、どうも「わざと」みたいでした。まー、ジェイクがいないとこのオハナシは成立しないし、「実物」は22歳(脱ぐとわかる(笑))かもしれないけど、一応16歳の少年が主役では、なんとなく、おとなは満足できなさそう──。そこはジェイクが、「しっかり」でっかいお目々でがんばってます。

 

 物語は、もう、アメコミだかなんだか、こういった題材が掃いて捨てるほどになってしまったアメリカ映画は、「おまとめ」をしていて、アイアンマン、アベンジャーズ、Xメンと、よけいにごちゃごちゃしていますが、そうでもしないと、どうもオハナシがもたない(笑)?

 

 しかし、画像デザイン、編集センスは抜群で、ただのアメコミヒーロー映画ではもったいない感しきり。とくに、スパイダーマンのパーカーたちが修学旅行だかなんだか、先生に引率されていく旅先の、ヨーロッパの映像がリアルかつ洗練されていて、行ったことのない人は、ぜひ見て欲しい。というのも、建物なんかがそれらしくても、実際は、「空間」が違うんです。その「空間感」は、テレビなどでも、わからないんです。でも、この映画はがんばって、そこを感じさせてくれます。

 

 で、まあ、「ゴーストバスターズ」のゴーストと似たようなものが「出てしまって」(爆)ますが、ここんとこ、あえて、ネタバレしませんが、言わせてもらえば、「そういうことにしてしまったら」、今後このテの映画はもう「あり得なく」なってしまわないかな〜? って心配しています。

 

 そして、本作であるが、映画は続くよどこまでも、で、エンドロールのあとも、「そのあとも」、重要なシーンが、もれなく付いてますので、よろしく!



 


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【詩】「花びらとしての物語」 [詩]

「花びらとしての物語」

 

クロード・シモン『アカシア』のページを開けば、T.S.エリオットの『四つの四重奏曲』からの詩篇が引いてある、

現在も過去も未来のなかに現前し、

未来は過去のなかに含まれるという意味の行

そして目次は、12章をローマ数字で示し、Ⅰ 一九一九年 とか、ⅩⅡ 一九四〇年 とかある。その間、年代は一九八〇年になったり

一八八〇年になったりする。

「彼女たち」の描写。

「彼女たち」が誰なのか、わからない。

ただただ描写されるだけで、いっこうに、ストーリーは

わからない。あきらかに、蓮實重や金井美恵子はこの作家の

エピゴーネンであることはわかるが、それ以上、この作家が

なにを描こうとしているのか、わからない。これは、

大いなる、長い長い夢のような詩なのではないだろうか。このような小説を書く作家は、日本では、金井美恵子や蓮實重しかいないような気がするが、どうだろうか。小島信夫も違う。小島はむしろできごとを延々と書くだろう。ここではできごとさえないのだ。ヌーボーロマンなるものが一時はやったが、あれとほぼ同じで、あ、もしかしたら、シモンは、ヌーボーロマンの代表者だったかもしれない。ナタリー・サロートとか、同じような書き方をする。そう、映画的なエクリチュールでもある。ただ映像を流している。その際、黒い服とかレースとか、女の肉体が示されるが、まだ事態は知らされない。

ヴェール、キャフェ、オムレツ……

父の車に乗り「遠州」に行ったとき、まず、

熊切というところ停まり、生け垣の向こうから

「キヨコ姉」が出てきたときのようだ、

パーマネントで、ちゃんとした服装をして、

「そこで」働いているといった。

「キヨコ姉」は笑い、手を振って、

車が遠ざかるのを見ていた。

あれから時間が過ぎ、ギリシア悲劇のように

「キヨコ姉」は目が見えなくなり、夫からも疎まれ、

兄である、私の父は死体になった。

「足を拭いてあげてください」納棺師の女性に言われ

足を拭いた。爪が伸びていた。

色のない固まった足。もし、生きた時間があるなら、

それは、白く香る

アカシア

決して

物語は

知ることができない。



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ハチミツの表示からクロード・シモン『アカシア』を思い出す。 [Book]


ミシェル・フーコーの「新しいテーマ」は、「人間はなにでできているか」であった。「なにで」? とりあえず、ひとりの人間の内面は、その人間が収拾した「情報」と、彼が発信する「表現」、などでできている(当然、それだけではなく、それこそ、分析が必要なほど多岐にわたるが)として、瞬時に脳内に形づくられるイメージ、あるいは、連想を記録してみようと思う。


生協で購入したハチミツは、アカシアハチミツと書かれていて、内容表示を見たら、「中国産」とあったが、アカシアという文字を見れば、すぐに思い出すのが、クロード・シモン『アカシア』である。この、孤高のといってよい、フランスの(確か)ノーベル賞作家は、アカシアの農園経営者であったと記憶している。さっそく本棚から探し出したが、読んではいない(笑)。帯に金井美恵子氏の推薦文が付いている。手が出なかったわけがわかった。なにかというと、この種の作品には、日本では、というか日本の「それ系」出版社では、すぐに金井美恵子を引っ張り出す。まともに両者の作品を読めば、「大きなちがい」がわかるはず。つまり、金井美恵子という作家は、はるかに、このレベルには達していないし、クロード・シモンを貶めることにもなる。そして、おそらく、本書は「売れなかった」(笑……(合掌))。で、どうなんですか? 中身は(笑)?





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『パピヨン』──リメイクというよりリニューアル(★★★★★) [映画レビュー]

『パピヨン』( マイケル・ノアー監督、2017年、原題『PAPILLON』)

 

 1973年作『パピヨン』を観ていなかったので、Amazonレンタルで前日に観て、本作に望んだ。オリジナルは2時間30分の長尺。リメイク版は、20分ほど短縮して、まさに、「余分だなー」と思えるシーンをカットしているが、ほぼ同じ脚本を使っているとみえる。カット割りなどもわりあい重なる部分がある。オリジナル版は、意外や「シブい」と思っていたマックィーンが若々しく、ジュード・ロウを思わせる甘ささえ漂わせている。そして、相手役のダスティン・ホフマンも、痩せていて、ナイーブな美形に見えた。

 

 本作もほぼ、オリジナルの2人を復元したと見た。しかし、主役のパピヨン、チャーリー・ハナムが、美形ですごくよいのである。実は、レミ・マレクを見にいったのだが、彼もそれなりに演技力を発揮してよかったのだが、こちらも当時のホフマンに似させていたが、やはり「パピヨン」役の引き立て役っぽい感じだったのは、ストーリーがストーリーだけにしかたがないだろう。そういう意味では、『ボヘミアン・ラプソディ』で「爆発」後、よく抑えのきいた演技をしていたなと思う。

 

 さて、では、映画全体はどうかといえば、余分な部分をカットし、細部を変えたことで、テーマ全体が変わっているのである。これは、胸に蝶の入れ墨のある無実の脱獄囚のヒーロー物語ではなく、フランスという、監獄ハイブランド国(笑)の、最も残酷だと言われる、ギアナに作られた「流刑地」の告発映画なのである。『鉄仮面』とか『レ・ミレゼラブル』とか、監獄は、おフランスの名物のようである。なんと第二次世界大戦の時代に、そんな場所があったのか、である。そこから、辛くも脱出した男が、作家になり、歴史に残さねばと書いたのが、『パピヨン』である、と、「あらためて」言っている映画になっていたのである。




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【詩】「フーコー最後の問い」 [詩]

「フーコー最後の問い」

 

1984年に死んだ、ミシェル・フーコーが

198210月にアメリカのヴァーモント州のヴァーリントンに3週間滞在し

ヴァーモント大学でテーマを掲げ、学生や教授たちと研究を共有した、そのテーマに関する講義が、彼の、まさに人生における

最後の講義となった。それは、すでに性の問題からは抜けだし、

 

われわれの時代における自己とは?

Que sommes-nous en ce temps qui est le nôtre?

 

という問いに行き着いていた。これは十八世紀後半から起こっていることであり、カントはテクストのなかに明確に書いているという。

それは、まさに、われわれの時代まで

続いている。この

ネットの時代こそ

さらに浮かび上がる問いだ。つまり、

瞬時に移り変わっていく

状況において、

自己はどのように構成されているか?

あなたの

ふとした

ひらめき

よくぼう

うちけし

さらに芽生える

よくぼう

それは、色濃いものではなく

さりとてかき消えてしまうものでもなく

応仁の乱の

兵士たちの

フランス革命の

ギロチン台の

パンの

シベリアの凍土の

海中のネットのケーブルの束の

スパイの

共和国の

クーデターの

発覚の

破れたシャツの

独房を生き抜いた男の

荒海の

イメージの

硬直した死体の

墓の

こころの

分離の

数式の

叫びの

民族の

知識の

無知の領域の

あなた

は、どんな本を読み、いかなる表現を

夢見ているのか?

あなたを構成しているものはなにか?

書いたものの

集積

からも分析される

あなた

 

そんな問い

 

je donnerais volontiers l'appellation d'ontologie formelle de la vérité.

真理の形式存在論とでも呼んでおきたい問い。

 

そして私は、

この詩をもって、この詩集を閉じようと思います。



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