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『君の名前で僕を呼んで 』(2回目鑑賞)──オリジナルと反復 [映画レビュー]

『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年、原題『CALL ME BY YOUR NAME』(2回目鑑賞)

 

前回観た劇場は画面が暗く、せっかく人工のライティングを導入せず、北イタリアの光と影を撮っているのに、不全感があったし、細部をじっくり確かめてみたい気持ちもあって、もう一度、べつの劇場で観た。

 

古代ギリシアの彫像というのは、それ以前のメソポタミアやエジプトの彫像と違って、王族や書記官などの、正面を向いたぼってりとした動きのない像と違って、ミロのヴィーナスに代表される、動きのある、八頭身の、人間的なものになっている。これは、制作当時から現代まで伝わったわけではなく、ヨーロッパにおける、「ルネッサンス」によって、「発見」された。そして、この「美の基準」こそが、近代まで連綿と伝わるヨーロッパ美術の美である。

 

本作の「教授」は、その、ギリシアから伝わる美術を研究している……ように見える。ギリシアから、ローマへと伝わり、ルネッサンスを通じて、その形がコピーされた──。本作の「湖」の底から発見されるのは、19世紀にある貴族が愛人に送った、ヴィーナスの「コピー」の銅像だった──。

 

「ミロのヴィーナス」オリジナルも、発見されたのは、19世紀である。

 

ここに、この映画の、オリジナルと変奏の、隠された主題がある。現に、主人公の少年エリオは、バッハの曲を、編曲している。しかし、その編曲は、「リスト風」などと、中間項を入れ、同時にリストをも「コピー」している。

 

当然、毎夏の習慣として、「教授」の父が受け入れた大学院生、アメリカ人のオリヴァーは、ギリシア的美の基準を満たした男である。車から降りたオリヴァーを、自室の窓から見たエリオは、一目で恋をする。それから、全編、エリオよりの視点でとらえられた「恋物語」で貫かれる。それは、男女を問わず、恋するもののすべての行動である。

 

本作は、ティモシー・シャラメという、フランス人の父と、ユダヤ系アメリカ人の母との間に、ニューヨークで生まれた、ある意味、現代哲学を肉化したような俳優と、アーミー・ハマーという、まさにギリシア彫刻そのままの肉体(ギリシア彫刻は、顔は個人の顔を持っていない)と、アラン・ドロンのような、まれにみる美貌、しかも、ドロンに知性を付け加えたような(笑)繊細な表情をも表現できる俳優が、1980年代の北イタリアの豊かな自然、樹木や湖や草原や古い建物のなかで、ふれあい、ふざけあい、からみあう。カメラは彼等の肉体と表情を様々な角度から捉え、しかも、ひとつのシーンが俗な物語へと変化する寸前に切り替えられ、次のシーンに移る。

 

まるで古代ギリシアの彫刻のように男性の美しさを強調したこの映画で、女性陣は旗色が悪い。とくに、エリオの、二人の、「フランス語を話す」女友だち、マルシアとキアラ。この二人の女性も、ギリシア彫刻を体現したようなオリヴァーの出現を当初から眺め、見守り、翻弄される。彼女たちにとっては、失恋の痛みを知る夏であるが、キアラは、オリヴァーと衆目のなかで熱いダンスを踊り、キスをし、まるで恋人同士のように振る舞われるが、それはオリヴァーの、軽いノリのひとつであった。一方マルシアは、エリオと、ほとんど恋人のつきあいをすることになるが、エリオがオリヴァーとの恋にのめり込んでいくに従って冷たくされる。そして、「ほんとうの恋人」ではないことを知る。しかし、彼女は、エリオがオリヴァーとの数日間の愛の旅行(理解のあるエリオの両親の粋なはからい)ののち、帰国する彼と本格的に別れて帰ってきた時、(耐えられず迎えに来てもらった)母親の車で、彼の住む町に帰ってきた時、母親が車を停め、カフェに入っていったのを待っている彼に近寄って来る。エリオは車から出て彼女にちゃんと向かい合う。マルシアは、「恋人同士」として振る舞われていた時、彼から詩集をプレゼントされたが、その詩集を読んで心に響いたことを伝える。そして、二人は、「永遠の(Pour la vie)」友だちの誓いの握手をする──。

 

映画は、そこでは終わらず、さらなる月日の経過を見せ、舞台となった地に、雪が降り積もる。クリスマスの時、それはユダヤのハヌカーとも重なるが、一家は、父親がユダヤ系とはいうものの、それほど、宗教的に重きを置いているわけではないが、「オリジナル」をも大切にしている。だから一家のお祝いは、カトリックであろう、イタリア人使用人もいるので、二つが重なったようなものになる。エリオの家では、ディナーのテーブルが整えられつつある。そこへ、アメリカのオリヴァーから電話がかかってくる。目的は、彼の婚約の知らせ。両親は適当に彼を祝福し、すぐにエリオとオリヴァーを「二人にする」。二人は、離ればなれの恋人同士の会話、「逢いたい」を伝え合い、初めて愛を交わした日に、オリヴァーが提案した、「自分の名前で相手」を呼び合い、愛を確かめる。そして……

映画はまだ終わらず(笑)、暖炉の前に、家族には背を向けて座るエリオの顔を映し出す。彼の背後では、テーブルセッティングが進行中なのが、ぼんやりと映し出されている──。カトラリーの金属音、ざわざわという家族たちの声、そして一度は、「エリオ」と呼ばれる。しかしエリオは反応せず、暖炉の前に座り続ける。暖炉の炎がエリオの顔に映り、パチパチと薪の燃える音がする。カメラは、長い長い間、エリオの表情をとらえる。実際は22歳のティモシー・シャラメという俳優はそれに耐え、17歳の少年の、「悲しみよこんにちは(Bonjour Tristesse)」を演じ続ける。映画はやっと、フェイド・アウトしていく。闇。エンドクレジット。オープニングと同種の「背景」。すなわち、古代ギリシア美術の彫像の写真を置いただけのもの。それに、落書きのようにクレヨンの筆跡で、「Call me by your name」。それは、17歳の少年のひと夏の「グラフィティ」に似合っている。映画はこのタイトルバックで、二人の男性の恋に、現代的な軽さを与えている。

 

 

 


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