『井筒俊彦全集 別巻(講演音声CD付き) 』──「フランス現代思想」の前に読むべき本(★★★★★) [Book]
『井筒俊彦全集 別巻(講演音声CD付き) 』(井筒 俊彦 (著), 木下 雄介 (著)、慶應義塾大学出版会 (2016/9/6)刊)
井筒俊彦の声が聴きたいがために本書を購入したが、わりあい細い声が、読み込んだ文献を自在に取り出して、「現代思想」としての、真言密教を語っている。おフランスの「現代思想」を云々する前に、わが国の真言密教を勉強してから飛びついてもらいたいものである。犬の散歩時が哲学の時間となる(笑)。くりかえし聴くほどに、文字からはなかなか得られない「立体的な」哲学の姿が頭に入ってくる。
スティーヴン・W・ホーキング『ホーキング、ブラックホールを語る:BBCリース講義』 ──こなれ感がちがう、お得な本(★★★★★) [Book]
『ホーキング、ブラックホールを語る:BBCリース講義』(
スティーヴン・W・ ホーキング 著、佐藤 勝彦 (監修), 塩原 通緒 (翻訳)、早川書房 (2017/6/22)刊)
ブルーバックスのような本だと、難しい説明から入るので、導入部で投げ出してしまうが、本書は、かなり薄い本で、そのメカニズムが構造的に即座に頭に入り、かつ、宇宙の成り立ちの基本もつかめてしまう。つまりは著者の頭が抜群によく、かつ、この分野の第一人者で、しかも、ほかの文献も読み込み、こなれているという感じである。これを読まないテはない。しかも、何度でも読みたい本である。
高尾長良『影媛──古語を使用というから買ったが……(★) [Book]
『影媛』(高尾長良著、 2015年2月、新潮社刊)
なんのことはない、地の文は、そのへんの作文。さるインタビューでは、現在医学生の著者は、医師の道と文学を両立したいと答えていたが、どちらの分野も、ナメられたものである。虻蜂取らずが関の山だろう。
Amazon.frの本が着いていた [Book]
外から帰ったら、Amazon.frの本が宅配ボックスに入っていた。早速、「すみませーん、無事落手。再送の必要ありません」とメールを書いた。しっかし、すごい対応だナ。
『現代詩手帖 2017年 07 月号 』──同人誌以下(★) [Book]
『現代詩手帖 2017年 07 月号』(思潮社、 2017年6月28日刊)
地方の書店には置いていない。大都市の大書店にあるかどうか。同人誌のようだが、志を同じくする士が、発行代+郵送代だけを割り勘にしている同人誌、あるいは、個人誌はまだ、金銭的には清潔である、と言える。
しかし、こと、このザッシに関しては、このザッシの発行元の、金銭+見栄主義で、詩の世界はメチャクチャになっている。まず、この発行元のカイシャは、詩の世界を、思うように管理しようとしている。私が観察した内容は次のようである。
1,看板になる「大御所」「有名人」には、おそらく原稿料は払われているのではないか?
2,売れるかも知れない本もたまには出るが、その著者が「大御所」ではない場合、おかしなことに、版元のくせに、売れるのをセーブしているかのように見受けられる。なぜなら、「大御所」もしくは「有名人」ではない著者が突出して、このカイシャが、制御できない市場の原理で動いてしまっては困るからである(この点が、大手出版社と異なる動きをしている)。
3,「中御所」(つまり、「大御所」ではないが、中堅で、それなり名前も、「詩の世界では」知られている)は、優遇するが、詩集出版には、100万円払わないといけない。
4,「いちげんさん」は、お断りである。いくらカネを出しても、一応、誰かの紹介か、「なじみ」になる道を探さなければ、カネを出しても、やたらには、ここでは詩集を出版できない。かといって、文学としての「質」が保証されているわけではない。かなり凡庸な、低レベルの詩集も混じっている。しかし、装丁は、人目をひく、洗練されたものが多い。それが、世間で注目されるゆえんでもある。
5,4のような「殿さま商売」的態度を保つことによって、かろうじて、「権威」のようなものを保っている。
6,ゆえに、不思議なことに、このカイシャの商売相手は、中堅詩人と「なじみ」客なのである。これだけでも、結構な数がいるので、そう高くないと思われる、社員の給料は払えているようである。
今号で言えば、
【特集1】「新鋭詩集2017」→ほぼ全員、同社、100万円詩集のお客さま(笑)。
【特集2】「鮎川信夫賞を読む」→勝手に賞を作られて、エラリー・クイーンのりっぱな訳者でもある、鮎川信夫氏はほんとうに迷惑していると思います。なお、この賞は、(今どき)50万円の賞金で、受賞者2名の場合は、半額ずつ(爆)。地方の賞でも、100万円は出しているのに、です。候補者は、100万円詩集のみなさまと、「有名人」(賞の権威を上げるため)で、だいたい同時授賞が多い。選考委員は、一人は、精神異常者のような詩を書いている詩人、もう一人は、かつてはヒモ生活、いま、地方大学教授。反権威をポーズしてきたが、行動を見れば、どういうヤカラかは、わかろうもの。この二人の選考委員は、コンプレックスゆえか、「権威」とか「大学教授」などの詩人に弱い。しかも、「出版社の意向通りに」授賞者を決めているようにも見られ、最初から候補詩集ならびに評論集には、印なんかがつけられているのではないか勘ぐってもしかたないほど、意外性がない選択。この選考委員たちにも、相当のお金が払われているのではないか? つまり、これが、生活の糧の稼ぐ「お仕事」なんです(笑)。歴代授賞者を見れば、どの人が、「権威付け」授賞で、どの人が、「100万円詩集」の顧客か一目瞭然であり、たまに、「公正さを装うために」、べつのカイシャで出した、そこそこ評判になった「評論集」(あくまで「詩集」ではない)が候補あるいは、授賞することもある。めでたく(笑)、この出版社で100万円詩集を出すと、一回くらいは、エッセイなどを、このザッシに書かせてもらえる。それで、「作家気取り」の「詩人」たちをFBで見かけたが、「御利益」は、1年ぐらいしか続かない(笑)。また、新しい、「100万円詩集を出す詩人」が現れ、そちらの「宣伝」もしなければならないからである。確かに、この出版社で詩集を出すと、ほかの賞も受賞できる場合が多く、それで「顧客」が絶えないとも言える。みんな、われこそはと思うのである。そして、晴れて権威ある賞を受賞すると、本誌に、作品を書かせてもらえる。それが、今月の、「新鋭詩集特集2017」の内実である。
柄谷行人『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』── 卒論レベル(★★★) [Book]
『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』(柄谷行人著、2004年、5月27日、岩波書店刊)
2004年刊行の本書を今さらながらに開いたのは、「ネーション」に関して思うところがあったからである。それというのも、イタリア人「テロファイナンス専門エコノミスト」、ロレッタ・ナポリオーニの本、『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』を読んでいて、もしかして、柄谷氏の考える「ネーション」とは、この「イスラム国」のようなものではないかと思ったからだ。結論は、柄谷氏も「国家やネーションを広い意味で経済的な問題として扱うべきだと考える」と書いているし、かなりあてはまる部分があると思った。
さて、本書は、「ネーション」という、民族や領土では規定できない、いわば「観念の反帝国的帝国」をキーワードに、マルクスから、ソシュール、ラカン、フロイト、宣長などなどを、総花的としか言いようのないにぎやかさと、論理展開は短絡的に、整理かつ論じたものである。まあ、「定本」としているところを見ると、本気の論文集なのだろうが、いかんせん、引用されるテキストが翻訳本で、しかも、わりあいお手軽なものだったりすると、どうしても、(本人決して明記はしていないが)かなりのものを原書で読んでいると思われる、小林秀雄、河上徹太郎などと比べると、どうしても「ショボい」感じがするのが否めない。しかも、彼らは「読ませる」文体を持っている。
著者はしきりに「オリジナリティ」を装ってはいるが、既存のものを整理し、かつ、すでに評価のある著者に「代弁」させていて、とても楽しんで読めるものにはなっていない。比べるのもどうかと思うが、たとえばハーバーマスの『公共性の転換』のような精緻かつ魅力的な書物に比べると、学生の論文のような文体で面白みにかける。優等生がきちんと整理した「卒論」程度のできである。
なお、哲学には、モンテーニュ、モンテスキュー、ヴォルテールなどの、どんな難しい内容でも、エンターテインメントしなければ人に受け入れられないフランス型と、ヘーゲル、カントといった、くそまじめな体系をひたすら目指すドイツ型があるそうである(串田孫一『ヴォルテール』世界の名著、中央公論)。本書は、当然、ドイツ型である。しかも、ベルクソンのような、「内部からの観察、分析」は、完全に捨象されている。日本の哲学風土を語りながら、「言語哲学としての真言密教」などへのほのめかしもない。
倉山満著『国際法で読み解く世界史の真実 (PHP新書) 』──危険思想をオブラートでくるんだ上げ底粗悪本(★) [Book]
『国際法で読み解く世界史の真実 』(倉山満著、PHP新書、–2016年11月刊)
本文288ページの目次を見ると、やたらと細かい。全6章、小見出し42、その小見出しの下に、項目が3〜4個ある。つまり、全部で120以上の項目があり、1項目、2ページ、四百字詰め原稿用紙に換算して、3枚程度しか割かれていない。この数で、「世界の歴史の場面」を、「国際法」(といっても、ルールのある「決闘」の「国際法」=「戦争」が基礎になっている。というか、おもに、「それだけ」(笑))を当てはめて「解説」(というほどのものでもないが)している。しかも、「ですます調」(まずい文章であるが、もしかしたら、編集者を相手に「口頭で説明しただけかも。とても「著書」と言えるものではない)。わかりづらい「物言い」の中から浮かび上がってくる「思想」は、まず、
1,戦争肯定(ルールがあるから)
2,ヒトラー擁護(まるで、「普通の指導者」のような扱い)
3,日本の中国侵略擁護(倫理観抜きの、損得として評価)
4,国際問題を、ヤクザの戦いと同格に扱う(笑)
しかし、あからさまには書かれていない。微妙な書き方だが、それゆえに、かなり危険な本と見た。こういう危険思想を、オブラートにくるんで出している版元の信用もどうですか。この版元から出る本は、厳重吟味の対象となるので、本書が売れても、他の本の売れ行きが落ちることになるかもしれないということに、この版元の社員は気づかないとみえる(笑))売れれば勝ちの風潮に乗ってしまっている、節操なき出版界の、「上げ底粗悪本」。
宇佐美ゆくえ著『夷隅川』──基礎を踏まえた端正な歌集(★★★★★) [Book]
『夷隅川』(宇佐美ゆくえ著、 2015年5月、「港の人」刊)
Facebook友の、お母さまの歌集で、初版は、2015年5月15日、それからほどなくして著者は亡くなられたと聞く。もとよりなんの知識もなく本歌集を読み進むと、新婚時代から子を経て、子供たちが独立し、やがて孫もかなり成長した姿で登場し、一人暮らしに戻り、ケアバスを待つ日々の、心の軌跡のようなものが書きつづられている。きょうびの若い歌人だと、もっとハデな歌が多く、本歌集などは地味のなかに沈んでいくか、見過ごされるようだ。だが、斎藤茂吉は、次のように書いている。
「檐から短い氷柱が一列に並んでさがつてゐる。それから白い光が滴つゐる。それを一首の短歌にしようと思つた時、ふいと比喩にするいふ思が浮んで、『鬼の子の角ほどの垂氷(たるひ)』と云つた。段々読み返して見るとどうも厭味である。それは鬼の子では余り目立ち過ぎてはいけないのだと思つた。それならば、『山羊の子の角の垂氷一並び』かと思つたが、どうも落付かない。『めす犬の乳首のやう』とも思つたが、どうもいけない。とどのつまり、『ひさしより短か垂氷の一並』といふ平凡な写生にして仕舞つた。比喩の句法で晶子女史は名手であるが、短歌に比喩の句法を用ゐるといふ事は余ほど大きな力を持つ作者でなければ駄目だと思つた。奇抜な比喩などは存外楽なものであるが、短歌では奇抜なほど厭味に陥るやうである。『ごとく』とか『なす』とか『の』の連続とせしめないで、一首を貫いて象徴にまで進むのである」(「童馬漫語」55写生『斎藤茂基地歌論集』岩波文庫、所収)
そう思えば、ちまたに溢れるいかにも新しき衣装、意匠をまとった歌など、厭味のオンパレードである。
この歌集の題名を見たとき、すぐに、音の連想から、
みかの原わきてながるるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ
という、百人一首で同じの歌を思い浮かべた。いかにも女性らしい歌であるが、作者は、中納言兼輔である(新古今集所収)。
本歌集の著者、宇佐美ゆくえにも、そういう心の輝きがあり、それらが収められているのが本歌集である。こんにち、多くの自称、多少「歌人」たちが忘れている基礎がここにある。
揚水の早や始まりて暁の野を光りつつ水の走れり
美しいリズムと朝の光が重なって、生きる喜びがそこにある。
職場への道急ぎつつふりかえる風邪の子ひとり残るわが家を
一瞬の思いを文字に留めている鮮やかさ。
雷鳴におびえる園児抱きつつ遠き日の吾子をおもい出しぬ。
ここには、他人の子と自分の子と、時間差の違う、子供への愛が隔てなくうかがわれる。これを比喩にはできないだろう。
霜白く勤めに急ぐこの堤きょうも一羽に白鷺にあう
乙女らは幻のごとく声あげて雪降りいでし橋渡りゆく
これらは写生の美しさのよく表現された初期作品である。晩年になると、写生ばかりもしていられず、「心理」が介入してくる。それは、時代の変化でもあるだろうし、そういう時代に老年を迎えた者の宿命であるかもしれない。
飛び跳ねて、これが歌と思い込んでいる自称歌人の方々がは、本歌集を読んで、勉強してほしいと思う。
熊野純彦著『マルクス資本論の思考』──反唯物論的感傷解釈(★★) [Book]
『マルクス資本論の思考』(熊野純彦著、 2013年9月、セリか書房刊)
この著者のエクリチュールの特徴は、なんでもセンチメンタルにしてしまう。それと、ニュートラルな文章では当然漢字を当てるところを、ひらがなで開いてしまう、どうもそこが、ガラスの表面を金属でキーキー引っ掻いているような気持ち悪さがある。
目次を見ると、ほぼマルクスの『資本論』のままである。そのいちいちを、センチメンタルな解釈を添えているだけである。しかし、ここまですべてやり遂げたことには、ある種の敬意を表する、それだけである。著者の言う、「今の世界はマルクス化している」の意味がわからない。ちなみに、中国共産党幹部の多くは、マルクスの『資本論』はまったく読んでないそうである(笑)。
『資本論』のような、徹底して唯物論的なテクストには、どんな「解釈」=「切り口」も可能である。ゆえに、著者が「十代のすえから三十代のはじめにかけ」て、参加していた、読書会のリーダーだった、廣松渉的な読みも、アルチュセール的な読みも、また、ミシェル・ヘンリー的な読みも可能であろう。カントやベルクソンの訳書もある著者のことであるから、当然原書で読んだのであろう。
私も本書のレビューを書くにあたり、十年ほど前に読んだ、『資本論』(筑摩書房の「マルクスコレクション」シリーズⅣ、Ⅴ)を再読してみると、「凡例」からして重要なことがわかった。曰く、
「「剰余価値」、「剰余労働」の「剰余」という表現は、厳密には問題的な訳語であるが、これはすでに人口に膾炙し、ほとんど日本語に固定しているので、変更しないでそのまま採用した。云々」
「剰余」のドイツ語は、Mehrwert(s) で、mehr は、「より多くの」、(der)Wert は、「価値」である。
また、永山則夫を引き合いに出し、彼が『資本論』を手にした時に最初に目にしたであろう章を勝手に推測しているが、これも、「第一の序文」を飛び越して、本文に入っているが、「第一の序文」には、以下のような文章がある。
「なにごとも最初がむずかしい、という諺はすべての科学にあてはまる。したがってここでも第一章、すなわち商品分析を含む箇所が理解するのに一番骨が折れるだろう」(鈴木直訳)
Aller Anfang ist schwer, gilt in jeder Wissenschaft. Das Verständnis des ersten Kapitels, namentlich des Abschnitts, der die Analyse der Ware enthält, wird daher die meiste Schwierigkeit machen.
(「科学」という部分は、「学問」の方が一般的だと思うが)
なるほどそのとおり、『資本論』は、終わりにいくほど「簡単に」なっている。「神は細部に宿りたもう」ように、『資本論』においても、「序文」と「原注」に、多くの「情報」がある。「情報社会」の21世紀こそ、それらを検討する「価値」があるように思う。しかし、本著者は、本文を「意味内容」に変換し、自身の「おセンチな思考」の表現を与えているのみである。
こんな「解説本」?を読むくらいなら、直接『資本論』を読むことをオススメします。とにかく、熊野純彦という学者センセイは、岩波文庫のベルクソン訳でもそうですが、ただでさえ難しい原著を、より「(おそらくはそのセンチメンタルな解釈によって)わかりづらくしてしまうクセ」があるので、要注意です。
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(少なくとも)P37と、P51に、誤植あり。