SSブログ

【詩】「ばんの」 [詩]

「ばんの」

 

日本思想体系の「熊沢蕃山」冊子の蕃の次をルーペで(笑)じっと見ていたら、なるほど、番の字にくさかんむりがついているのかと思ったが、そのくさかんむりのない「番」の字から、「ばんの」という言葉が思い浮かんだ。私の長い人生のなかで、この言葉はわりと頻繁に頭に思い浮かぶ。それは、小学校の同級生の名字で、正しくは「伴野」と書いたと思うので、とりわけ珍しい名字でもないだろう。そして、半世紀を経た上で、ここに実名を書くことに、大きな支障があるとは思えないし、また本名でなければならないのだった。今後の生においてもいかなる「ばん」が来ても、私はこの名を思い出すだろう。これもまた、未知への鎮魂かもしれないが、もはや、角もろとも、顔の半分を削り取られたサイの画像を見たあとでは、いかなる鎮魂も焼け石の水であることを感じた。「ばんの」に、「くん」をつけないのは、それが、一個の人格、思い出のなかの個人ではあり得ないからで、しかも、その男子には、同級生でありながら、ジャーナリストの精神で接し、彼の内面に迫るインタビューまでしていたからだった。このような男児が、自己の外部に対して、本心を吐露することなどあり得ないが、私は本音を引き出していたと、今となっては思う。ばんのは、私の母方の故郷である、三河一宮は砥鹿神社にその昔かかった、見世物小屋で見た、牛男に風貌が似ていたように思う。その牛男は、観客の前で、教室のような机を前にした椅子に座り、ビスケットのようなもぼりぼり、人々がじっと注視ていることなど気にせず食べていた。どこが牛男なんだろう? と思ってじろじろ見ると、足が、裸足の足が、蹄になっているのだった。その男を、伴野の風貌は彷彿とさせた。彼は今でいう、ジングルマザーで、兄弟はいたのかもしれないが、私が彼の、小学校裏の、家を訪ねた時(私はどこへでも訪問したいたのだった(笑))は、ばんのと母親だけで住んでいたようだった。その家は、その時代はそれほど目立つわけでもない、掘っ立て小屋のようだった。もちろん、私はそこには長居しなかった。小学生ゆえの、気軽さで、ばんのも受け入れたのかもしれない。母は「ばー」に勤めているということだった。

ある日、温厚を装っている教師が、ばんのが彼の物言いを真似たというかどで、教壇に引っ立て、二回びんたを張った。「いいか、もうするなよ」と低くつぶやきながら。教師もばんのには、ことさら冷たいようだった。

勉強などできるわけがない。

そして、高学年になったある日、ばんのの姿はなく、「万引きで少年鑑別所に送られた生徒がいる」と教師は言ったが、だれも気にする人はなかった。ばんのだな、と私は思ったが、ほかの生徒は、「明日はばんの」のやつも混じっていたと思うが、そんなやつでも、おのれの牧歌のなかにいて、誰も、ばんののことなど、思い至るやつはいなかった。

荒れ地を必要以上に開墾地にしてはならぬ。耕地の新規開発は村の荒廃を招く。という考えの蕃山の、「蕃」の、くさかんむりをとれば、ただの「番」。そして、その「音」は、ただちに「ばんの」のイメージを呼び起こす。

「山下さん、困るなー。ネットにこんなこと書いて。削除してくださいよ」てなことになることはあり得ないと思って書いているが、ことさらに個人情報は書いていない。はなから、そんなものは、ばんのにはないのだった。

 


nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。