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『女は二度決断する 』──インフラがたがたのドイツを反映した映画(★★) [映画レビュー]

 

『女は二度決断する』(ファティ・アキン監督、 2017年、原題『AUS DEM NICHTS/IN THE FADE』)

 

 経済優先しすぎで、橋や道路などのインフラががたがたというウワサのドイツと経済破綻したギリシアが、相互乗り入れしたような映画だ。

 爆破犯のネオナチは、カップル二人だけ。それに協力していた、いかにもギリシア顔の、やはり、ネオナチのギリシア人のオッサン。「悪者」は、この三人だけ(笑)。主人公の夫が経営するオフィスの前に「自転車爆弾」(笑)が仕掛けられ、夫と息子は「ひどい死に方」をする。いかにひどいかを、裁判中に延々と語られ、ダイアン・クルーガーのヒロインは、ただでさえ哀しいのに、恐ろしいまでの悲劇へと、自己を追い込んでいく。まあ、夫と息子は即死なのだけどね。

 なんで、狙われたの? それは彼がトルコ系で、そのなかでも少数民族のクルド人だったから? クルド人はユダヤ人みたいに国家を持たず、中近東を中心に、世界中に散らばっている。トルコに一番たくさんいて、1000万人ほど。ドイツにも、50万人はいるらしい。それなのに、なぜ彼女の夫が? 彼女の夫は、薬の売人をやっていた過去があり、それで服役もしていた。「今は真面目に働いているんです!」事務所を開いて、翻訳とかそういうことをやっているらしい。

 「豪邸に住んでいるね」と刑事に言われ、クルーガーは、「不便なところだから、土地代は安いんです」てなことを言う。このヒロイン、なぜか、タトゥー趣味で、体中にタトゥーを入れている。クスリの経験もあり、現に、耐えられなくなった時、友人の弁護士から、クスリを分けてもらっている。なんで弁護士が? 「顧客のプレゼント。捨てるつもりだったから、タダであげるよ」

 被害者の家宅捜索(も、家宅捜索されるのか? ドイツでは?)の時、ヤクが発見されるが、精神的に辛かったので使用と、「微量」なので、法的には見逃される。

 テロリストのカップルは意外に簡単に捕まって、裁判が始まるが、犯人の男の父親までが、倉庫に爆弾の材料があったと証言しているのに、その倉庫の鍵が、第三者でも使えた状況にあったことで、「疑わしきは罰せず」的無罪となる。

 そして、主人公独自の復讐劇が始まる──。原題は、『AUS DEM NICHTS』日本語に訳せば、「無へ」ということか。だから、本作は、推理劇でもなければ、社会劇でもなく、一人の女の心の軌跡ということになる。思わせぶりっこに、三部仕立てのテーマで区切られている。

 まあ、これは、事実まんまなのだろうと思われる。現にドイツに、こういう女がおり、こういう事件があったのだろう。背景もあまり直してないと思われる。だから不可解さが残る。どこかを変え、もっと納得のいくドラマにすることもできただろう。しかし、女が追っていく、犯人カップルの隠れ家(浜辺に停めたキャンピングカー)があるギリシアの、寒々とした風景はどうだ? カップルの掩護人、いかつい顔のオッサン経営のホテルもやすっぽ〜。これはこのまま、お国の内情が出てしまった映画と見た。貧すれば鈍す。人員も、予算も足りず。ただひとり、CHANELカヴァーガール(アンチエージング系の化粧品)の、ダイアン・クルーガーのみが、凄絶な演技をする。

 このヒトを初めて見たのは、ブラピ主演の『トロイ』。絶世の美女、ヘレナに扮したが、これが絶世の美女?と思った印象は今も消えず。やー、CHANELのカヴァーガールに選ばれるくらいだから、美人だとは思うんですが。

 


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『君の名前で僕を呼んで 』──愛とは教養である(★★★★★) [映画レビュー]

『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年、原題『CALL ME BY YOUR NAME』)

 

 愛とは教養である。教養がないと、「モーリス」映画を期待して外されたと悪態をついたり、ストーリーや演出の起伏がないなどと、自らのバカを露呈することになる(笑)。

 主人公の17歳の少年は、実は(当時)22歳の、ショーシャ・ローナン男版のような、ニューヨーク生まれのアメリカ人俳優が扮している。巧まずして、こういう「深さ」は出せないだろう。北イタリアの自然に富んだ別荘地が舞台ながら、制作側は、自然に、任すわけにはいかない。具体的に所在地を設定せず、「こんなことがありました」的な展開である。

 古代ローマ文明研究者の大学教授の屋敷に、「例年のように」大学院生が、おそらくは、教授を補佐しつつ、自らの論文を書くためにやってくる。それは毎年のことなので、教授の17歳の息子やガールフレンドたちは、「今年はどんなやつかな?」的な興味しかない。それが……

 車から降りた彼は、身長190センチ超、だけど、ごつさは全然なくて、遠目でもハンサムとわかる。しかも、教授がしかけた、母の出すアプリコット・ジュースを飲みながらの、「第一の難問」。アプリコットの語源をも、難なく自説を披露して、教授のお試しを、突破する。少年は少年で、バッハなど、クラシックを編曲する趣味(?)を持っている。ピアノも、オリジナルにすばらしく弾ける。母とは、フランス語で話している。ということは、母親はフランス人か? ガールフレンドともフランス語で話していて、一家は英語で話している。お手伝いさんや下男(まー、差別語ですかね(笑))などとは、イタリア語で話す。

 すると、この一家はユダヤ系フランス人なのかもしれない。だいたい、教授の名字のパールマンは、ユダヤ系の名字だ。やってきた、アメリカ人の青年も、ユダヤ系である。

 頭脳明晰の、オリヴァー(アーミー・ハマー)だからこそ、「最高の愛の交換」を思いつく。「きみの名前でぼくを呼んで。ぼくの名前できみを呼ぶから」。これこそ、時間にも社会的条件にも打ち勝つことのできる最高の愛の証である。よしや、この二人に「ハッピーエンド」があるとして、それは、途中でパールマン家にやってくる、年老いたゲイ夫婦のお客のようになるのが関の山。かくも、時間は残酷である。美しいまま、美しい時間を凍結するなら……「きみの名前でぼくを呼んで」である。だから、(「オリヴァーの帰国」で終わってもいいはずだった)物語は延々と続き(このあたりが、フツーの映画しか知らないか観客は冗長に感じてくる)、アメリカへ帰ったオリヴァーから突然電話がかかってくる。それは、不自然でもないように、ユダヤ特有の、「ハヌカ祭」の日に設定されている。オリヴァーはそこで、自分の婚約を告げる。けれど同時に、少年への愛も伝える。お互いは、自分の名前で相手を呼び合う。これこそ、時間にも社会の規制にも打ち勝ち、いつでも二人の時間を取り戻すことができる術(すべ)なのだ。

  こうした「映像の文学」に、通俗的なドラマチックな展開(バカが、「母親とできるとか」と言っていたが(笑)。そういう意味では、ブ男、ダスティン・ホフマンの『卒業』は、通俗である(笑))を求めても意味がない。しかも、美として表現されるためには、演じる男優たちの洗練された演技術、かつ、美しい肉体が必要である。とくに、少年を魅了する、「おとなな」男の美は、今役者としてノリにノッている、アーマー・ハマーあってのものだろう。彼は、今、ブロードウェイの舞台に立っている。ぜひ、生(なま)アーミーを見るために、ニューヨークへ行きたいものである(笑)。

 


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