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『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ 』──ソフィア・コッポラ、ガーリー脱して哲学女となる(★★★★★) [映画レビュー]

 

『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(ソフィア・コッポラ監督、 2017年、原題『THE BEGUILED』)

 

 淑女が淑女候補たち(事情があって家に帰れない)を教え宿も提供する、森林の中の女学院。そこに一人の兵士(時はアメリカの南北戦争時代の終わり)が入り込む。彼は脚に怪我をしていて、敵方の兵士ではあったが、淑女は淑女候補の少女たちの教育的配慮もあって、その兵士の傷の手当てをする。その兵士はちょっといい男であったので、淑女候補たちは興味津々。そのシーンの、風景、光、館、食事、淑女や淑女候補たちの衣装、調度、音楽などが、パステルの光に包まれ甘美で、かぎりない心地よさに包まれている。女たちの年齢は、もともと館の持ち主で、寄宿舎長のニコール・キッドマンが四十台後半で、あとはティーンエージャー前後の娘たちだが、中間層に、三十代ぐらいの女性がいて、フランス語の教師だから、どこかヨーロッパ系なのだろう。この役を、ソフィア・コッポラの秘蔵っ子、キルスティン・ダンストが演じている。年の頃合いなら、この兵士に似合うのは、このキルスティンであり、現に、最初に相思相愛になるのは、この二人である。しかし、この二人の恋路を、おませで身長もでかい、エル・ファニングが邪魔する。要するに、「据え膳」で、男の肉体を「先にいただく」。自室で待ってもなかなか来ないので、キルスティンが、男の部屋とされている音楽室を見にいくと、そうなっている。

 そのあたりから、淑女教育が崩れていく。頭に来たキルスティンに階段から突き落とされて、治りかけの男の脚は再度、深く傷つく。すぐに、淑女のマダムのニコール・キッドマンが「治療」する。「出血が止まらない。ほっておいたら、壊疽で死んでしまう。脚を切らなければ」「待って!」と止めるダンストだが。ニコールの強さに押されてしまう。「解剖学の本も持って来て!」

 ついに、脚を切られてしまった男。怒り狂って反撃する。のは、当然だが、やがて和解案が出て、みんなでディナーとなる。いや、そのディナーは、厄介者になった男を始末するためのもので、「案」は、いちばん幼い少女が考え出した。「好物のきのこ料理を出したら?」「そ、そうね」「特殊なきのこをエイミーに取ってきてもらって」

 そう。エイミーが森で、傷ついたその男を発見したのも、きのこ狩りの時だった。エイミーは「その男のためのきのこ」を見つけることができる。

 ──さも、うまそうにきのこ料理を食う男。じっと見つめる、淑女と淑女候補たち。ただいっしょに逃げようと約束したダンストは知らない。すぐに苦しみ出す男──。で、門扉に青い布を巻いて、味方の軍が通った時、門の外の道に置いた死体を回収してもらえばいい。どうせ戦争で死にかかっていた兵士だった。淑女たちがていねいに縫った白い袋に入っている。戦争で死ぬより、たとえ片時でも、おもしろい経験をしたのではないかしら? ほっほっほ。リメイクだというが、オリジナルは観ていない。いないが、思い出した映画は、キャシー・ベイツ『ミザリー』、それから、なぜか、『ハンナ・アーレント』。凡庸さの悪。淑女たちの狂気。同根のものと見た。

 ソフィア・コッポラ、ガーリー脱して、哲学女となる。



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細田傳造氏がまた…… [詩壇?]

「細田傳造氏がまた……」

 

 細田傳造氏より、ふたたび同人誌、今度は、去年の9月刊の『妃』を送っていただきましたが、表紙には既視感もあるのですが、何度も言うようだけど、「一番高貴な詩の雑誌」というキャッチコピーだかなんだか知らないけれど、それを表紙に印刷してあるのだが、自らでこんなふうに言ってしまうのは、どーですかね〜?(笑)。

 ここに、細田氏が加わっていたとはね〜……。しかも、この号の「目玉」の中沢けいが、細田さんの詩集『かまきりすいこまれた』の「感想」を書いている。これは批評とかいうレベルではなく、ただの感想でしょう。しかも、けっこー紋切り型。こんな「有名人」に感想書いてもらって、なにがうれしいんでしょう?

 はっきり言って、この号で、詩に値するものを書いているのは、小谷松かやだけ。細田さんの「妹」という詩も悪くはないのだろうけど、既視感あり。

細田さんは、いま、いろいろな同人誌に加わり、いろいろな「詩人」たちにまみれ(?)、もまれているつもりなのかもしれないけど、なんらプラスにはならないと思う。「詩人的」感情のうずのエントロピーの中に取り込まれ、個性はどんどんなくなるかもしれない。この『妃』は同人が多すぎる。せいぜい五人以下でやった方がいいのでは? そこで、提案だが、このなかの、小谷松かやと二人でやったらどうかな? もっと質素でも。しかし、いずれにしろ、表現行為をするものは、元来孤独なもので、その孤独を受け入れないことには、一流の表現者となることはできないだろう。集団でいると、どうもそのへんがあいまいになるし、お互いホメあってしまうし、そうでなくても、多くの「詩人」(「歌人」「俳人」も含めて)さんたちは、ホメことばだけを追い求めている。

「中沢けいと並ぶ」ぐらい私にだってできる(笑)が、ここに並ばせてくれた人とは二十年以上つきあったが、その人には、一度もホメられたことがなかったので、そのことを言うと、「その人をダメにしてやろうと思えば、いくらだってホメればいいのだから」とその人は答えた。

ついでに言えば、SNSでは、「有名人」とは対等な「友だち」カンケイは築けず、結局「ファンクラブ」のようになってしまう。ので、私は切りましたのよ、中沢けいさんは。切っておいてよかったと今思いますワ(爆)。こうして言いたいことが言えるのだから。と、言うわけなのさ。

 なんでも「あとがき」を見れば、細田さんは、浜畑賢吉、田村正和、高橋英樹、林与一と、同じ年の生まれだとか。へえ〜。きっと細田さんも、若い頃は、色男だったんだ〜。しかし、いまはジジイになってしまって、先にあげた役者のみなさんは、「色男」のまんまである。そのワケを、じっと胸に手を当てて考えてみた方がいいのでは?。おわり。

 

(この文章に、『「中沢けいと並ぶ」くらい私にだってできる』という題名を考えたが、やっぱ、「中沢けい」を題名に入れるのは、まずいな(笑)というわけで、ここでは題名なしで。ブログにコピーのおりは、あたりわさりのない題にします(笑)



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