【詩】「詩人たちの春」 [詩]
「詩人たちの春」
杜甫は河船の中で生涯を終えた
ウェルギリウスも瀕死の床を船中で迎えた
アシェンバハは、ヴェニスの海岸で、遠くで
水遊びする美少年に手を差し伸べたところで息絶えた
それらの水の色は、碧、紫、藍。
不幸な死、慚愧に堪えぬ死、幸福な死。
誰も、アシェンバハのように死にたいと思う。
ときは春、神そらにしろしめす
ウンガレッティと雲雀
ゲーテと鷹
【詩】「それはデリダだと宗近真一郎が言う」 [詩]
「それはデリダだと宗近真一郎が言う」
愛敬浩一という人の『それは阿Qだと石毛拓郎言う」という詩集を見たら、宗近真一郎のことが思い浮かんで、これをパロッた詩を書きたい気持ちになって書いている。
愛敬浩一という名前を見ると、なぜか宗近真一郎という名前をセットで思い出してしまう。しかし、きっと氏は、阿Qとは言わず、デリダというだろう。
デリダ? だりだ? アラン・ドロン。
愛敬氏の詩集は、評論を集めたような詩集である。評論集ではなく、詩集だと表紙に書いてある。
石毛拓郎氏はネットをやらないので、なんか古いイメージがある。宗近氏は、パリにも長期滞在していたようだから、モダンなイメージがある。そして、愛敬氏の詩集の色は、当然のようにイエローである。イエローがこれらの人々をつないでいる。
「おーねがいー、だまっていて〜」と中村晃子は歌うが、デリダ、じゃなかったダリダは、
Toujours des mots, encore des mots
つまり、ことば、ことば、あなたなんてことばだけじゃない、
と歌っている。
あれ? あの女性歌手、ダリダって名前じゃなかったっけ?
「それは阿Qだと石毛拓郎が言う」という詩は、
よくわからない詩だ。
しかし、「それはデリダだと宗近真一郎が言う」という詩は、
明白だ。なぜなら、
ベルクソンを読め!
だからだ。群馬県警ってー、「掘る」のが得意だったんだよ。
浅間山荘事件で鍛えられて。
Toujours des mots, encore des mots.
【詩】「火刑法廷」 [詩]
「火刑法廷」
拷問史とか刑罰史とか
輻射の側ではどう見ているのか
呪いのお札の裏側に書かれた物語を
書き直す稗田阿礼あるいはホメロス
二進法とか重力の誕生は
長江の古船で発見された詩集に書かれていた。
水槽いっぱいの水を漏斗で口から注入する拷問は
水に属し、CIAでは
合法とされる。
フーコーはむしろ馬二頭で
両の股を引き裂く拷問を記述している。
それは馬に属し、いずれにしろ
四隅に張られた黒い幕は桜の季節の
現聖路加病院敷地にて行われた
浅野内匠頭長規切腹時の
白い幔幕にあこがれている。
読めない展開(笑) [文学]
(とりあえず寝ます(笑))
伊藤詩織さんレイプ事件に思う [世の中]
「伊藤詩織さんレイプ事件に思う」
「伊藤詩織さんレイプ」事件直後「高輪署」へ訴えたのがマチガイ。はっきりいって、交番の署員は、大して役に立たない。警視庁のウェブサイトにメールを書くべきだった。このサイトでは、かなり上の人が、ことと次第によっては、防犯カメラをすぐ見て確かめる。
それと、「私は相手を告発したいわけではありません。性犯罪をなくしたい……」というきれいごとはいかん。たとえ「性犯罪をなくしたい」のが動機であっても、相手の「犯罪」を徹底的に証明し、かつ告発しなければ、なにも始まらない。
ちなみに、「レイプ犯」山口敬之氏(元TBSテレビ記者にして、安倍晋三の友だち……とか)って、どんな風貌なにかな〜?って、検索したら、(初代)月亭可朝みたいやった(爆)。人は見た目が10割の私の信条がまたまた証明されてしまった(笑)。
ひとつの議論として、女性側の態度の甘さを指摘する声があるかもしれない。いくら仕事のハナシとはいえ、よく知らない男性と酒を飲んだりするのは、ガードが甘かったかもしれない。しかし、それと、「犯罪」とはまったくべつの話なのである。ジョディー・フォスターが出た『告発の行方』という映画があったが、このなかで、ジョディーは、集団レイプの被害者として、女性弁護士と、犯人たちを告発していくのだが、ジョディは、酒場のホールで、デュークボックスの音楽に合わせて挑発的な躍りを踊ったりしているのである。しかも身分も、風俗のような仕事をしていたような……。だからといって、犯罪は犯罪なのである。という認識が、世間的には、まだまだ足りないのかも……。その山口っていう「ジャーナリスト」にもね。
https://newsmatomedia.com/yama-scandal
『トゥームレイダー ファースト・ミッション』──ララ 3.0(★★★★★) [映画レビュー]
『トゥームレイダー ファースト・ミッション』(ローアル・ユートハウグ監督、 2017年、原題『TOMB RAIDER』)
17年前のアンジェリーナ・ジョリーは、三つ編み、巨乳を強調し、ゲームのララそっくりに作ってあった。本作も、ストーリー展開はほぼ同じ。冒頭はララの訓練シーンで、アンジェリーナは、確か、お屋敷の訓練場のようなところで、ハイテクの敵を相手に訓練していたような気がする。2001年は、21世紀最初の年で、妙に「ハイテク」を意識していた。それが「ララ 1.0」だとすると、その続編も作られたようだが、あまり評判にはならなかった。おそらく、時代がこのゲームの設定を超えてしまったのではないか? 私もゲームCDを持っていたが、まったくやらずにブックオフに売った。
時間は激しく過ぎ去り、あの、アリシア・ヴィキャンデルが、「ララ」をやると知って、これは見逃してはならないと思った。こういう映画はスターが出てないと、という、ジジイなレビューもあったが、アカデミー助演女優賞を取っているヴィキャンデルって、スターでしょ? 彼女あっての「ララ・クラフト」。しかも、「2.0」を飛び越えて、「3.0」。リブートっていうのは、そういうことなのでは? アンジェリーナの名前はどこにも出てこない。比較にすらならない。時代が完全に変わってしまったのだ。
ヴィキャンデルは、小柄で、肉感的なアンジェリーナと対照的な風貌をしている。可憐、さっぱり、クール。その肉体を鍛え抜いて、ほぼスタントなしでアクションをこなしたという。こちらのララは、富豪の家とは縁を切って、ロンドンで、シュミの格闘技(笑)のレッスンをしながら、バイク便の仕事をし、お貧乏な暮らし。完全に自立した女性である。
どこかのトゥーム(=墓)へ向かうことになるのがお約束だが、その墓がぬあんと、日本の卑弥呼の墓だった。いったいどこにあるの? 志賀島?(うち(福岡)の近くじゃん(爆)。まあ、とにかく、途中香港に立ち寄って、日本付近の謎の島へ向かう。そこは魔界で──。
その島には、死んだはずのオトッツァンがいて、友人の裏切られて、身を潜めていた。その友人は、卑弥呼の墓を暴き、世界を征服するパワーを得ようと、墓掘り作業を進めている……。このあたり、シェークスピアの『あらし』を思わせる。現に、ララもバイト仲間の前で、シェークスピアからの引用をごく自然に口にする。父が残した秘密の地図、古代の伝説、そしてパワーを手に入れて、世界征服を企む、「トリニティ」なる集団。ばかばかしいと怒らないでください、オジーチャン(笑)。これは、もともとゲームなんですから。でも、「伝説ももとは事実がもとになっているんだ」と、ララの父親が、幼いララに言う。そう、ゲームも、文学がもとになっていることが、ままあるんです(『ミスト』とか)。
大の男を相手に、丸腰で闘うヴィキャンデルがすごい。これまでにあったような、大柄なヒロインではなく、華奢で強いのが新しい。母の形見の、緑の石のペンダントを質入れしたララだったが、「卑弥呼の魔の島」から帰って、(父の財産を継いだので)お金を持って、そのペンダントを受けだしにいくが、逆に拳銃を買ってしまう。それも最新式の強力銃。「2個いただくわ」。
バットマンと似たような家庭環境にあるララであるが、もしなにかと親身になって彼の世話を焼く執事が悪とつながっていたら? さいわい、バットマンの執事は、善人が保証されている。しかし、ララ・クロフトは、執事にあたるような、父親の会社の重役が、どうやら最強の敵のようである。その「敵」は、クリスティン・スコット・トーマスが演じる。以下、(たぶん)続く(笑)。エンディングの音楽と絵画が、ヌケていて、やっぱ「3.0」である。
【詩】「廃虚あるいは円環」 [詩]
「廃虚あるいは円環」
忘れられし時の石甕の中 わが愛は眠る
そは巫女の形をして 蜥蜴に守られぬ
夢とうつつの間の眠る瞬間
そは赤き舌を出しぬ
【詩】「犯罪者たちへ」 [詩]
「犯罪者たちへ」
愚行、しくじり、罪、強欲、
きみたちの脳髄を占め、体を動かしめる
そしてきみたちは心地よい妄想を喰らう
似非詩人たちが糞のような観念を育てるように
『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』──聖なるギリシア悲劇は星では評価できない。(★★★★★) [映画レビュー]
『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』( ヨルゴス・ランティモス監督、2017年、原題『THE KILLING OF A SACRED DEER』)
確かに魅せる。ぐいぐい惹きつけられていく。惹きつけられながら、違和感が混じってくる。違和感に混じられながらも、まだまだ惹きつけられる。題名といい、展開といい、設定といい、ギリシア悲劇がもとになっているのはわかる。だから、決定的な不条理な悲劇になるのもわかっている。それを、五十歳に達して、なお美貌を保ち、しかしどこかやつれ、痩せ、しかし、相変わらずスタイル抜群のニコール・キッドマンが演じる。心臓外科医の美しく、しかも、自らも有能な眼科医で、ひとへの愛、慈悲心にも満ちている女性を、淡々と演じる。
主役は、彼女ではなく、夫で心臓外科医の、コリン・ファレル。濃い男である。少し前に観た、アメリカ南北戦争の時代の、女たちだけの寄宿舎に囚われた兵士の物語『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』でも共演した二人が、わりあい似たようなトーンで見せる。似たような雰囲気が漂っているが、現代の心臓外科医のゴージャスな暮らしとは全然状況が違う。キッドマンも、先の映画では、自宅を学園に開放している学園長であった。その役も今回の役も、笑わず、陰鬱な表情をしている。
本作では、ひとりの少年がからんでくる。それは、『ダンケルク』で、途中で命を落とす、うぶな雰囲気の少年役のバリー・コーガンだ。船の仕事にあこがれて、一般の客船が戦場へ向かうのに乗り込む。遠目に見ると、日本人に見える細い眼の地味顔、しかし、眼は海のように青い、「少年」であるが、実際は26歳で、16歳の役を演じている(このうまさは、『告発の行方』で、主役のリチャード・ギアを食っていた「少年」、エドワード・ノートンを思わせる)。 主役の心臓外科医は、この「少年」に対して、のっけから、特別な存在のような態度を取る。高級時計を買い与えたり、携帯の番号を教えていつでも連絡するように言ったり。「人目を忍んで」会ったりする。すぐに想像されるのは、彼の隠し子なのかな? である。やがて、この「少年」の父親の手術を、酒を飲んだ状態で行ってミスをし、死なせてしまったことがわかる。つまりは、どこかに罪を意識を感じているのである。それに、この少年はつけ込む。「ギリシア悲劇」でなかったら、そういった類のスリラーである。ファレルの二人の子ども、14歳の女の子と、10歳くらいの男の子。ふたりとも、美しい子どもであることが、ことさらそれが強調されているようにも見える。女の子の方は、家の食事に招待されたコーガンに夢中になる。やがて、二人の子どもが歩けなくなる。コーガンが、父親を、心臓外科医のミスで殺されたという恨みを抱いているのはわかるが、かといって、呪いをかけている姿が描かれるとか、そういうことない。しかし、この美しくも完璧そうに見える一家に災いをもたらしたいとは思っている。ファレルは、この少年の母親とも関係していたことが暗示される。コーガンは言う、
「あんたが死なないためには、家族の誰かを殺すんだ」
ファレルは狂い、妻と二人の子をテープで締め上げて目隠しをし、別々のソファに離して座らせて、銃を持って自らその場でぐるぐる回って、偶然性を加味してから銃を放つ。銃は、今から思えば、猟銃であった。
猟銃、狩り、鹿、聖なる、つまり神への犠牲として選ばれた鹿……それをおかせば、災いがある……。
妻や子どもたちにかぶせた布袋は、どこから持ってきたのだろう? この時のためにわざわざ縫ったのか?
……などという都合のよいディテールに眼がいき始めた時、この映画は破綻する。ここまで書いてきて、レビュー評価の星の数を決める。結果はごらんになった通りだが、しかし、それでもなお、星の数で評価って、なんなの?
【詩】「チャイナ・ガール」 [詩]
「チャイナ・ガール」
チャイナ・ガール、おバカさん、ベビー・ドールのネグリジェのようなふわふわドレスでご出勤。仕事は、日本人の旅行客につきそう添乗員。上司か先輩かに叱られて、べそをかいていた。コーヒーはすきじゃないというので、何がすき? と聞くと、オレンジジュースと答えた。おそらく、ゴダールの『La Chinoise(中国女)』も知らない。おそらく、
江碧鳥逾白
山靑花欲然
今春看又過
何日是歸年
ちゃんぴーにゃおいーぱい
しゃんちんほあいーじゃん
ちんとぅんかんよーこお
ふーりーしーくいにぇん
も、しらない。
目の前の河が、碧色であるということも。
その河に浮かんだ舟のなかで死んだ詩人のことも。