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【Amazonレビュー再掲】『アベノミクス批判——四本の矢を折る』 ──極右政治家(海外メディアはそう書いている)安倍晋三分析(★★★★★) [Amazonレビュー]

『批判——四本の矢を折る』(伊東 光晴 著、2014年12月14日、岩波書店刊)

 

 伊東光晴は、『ケインズ』(岩波新書)の翻訳もあり、長きにわたる雑誌『世界』の論客であるが、それより、「岩波文化を代表する」などと形容されることもあるようだ。「岩波文化の凋落」などと、本書を批判しているレビュアーもあるが、だいたい、「岩波文化」などということ自体、歳がわかる(笑)。かつてそのようなものがあったとしても、そのようなものは、とっくに凋落していて、なにも本書には関わりがない。

 まっとうな(資料を駆使して、科学的に分析するスタイルの)経済学者ではあるが、本書は、経済学ばかりの本ではない。「アベノミクス」という、知識のない庶民、あるいは、あってもテキトーな政治家向けの、便利な言葉のうさんくささを、とくに、「アベノミクスの三本の矢」(金融政策、国土強靱化政策、成長政策)という経済政策がいかに「不可能か」を実証的に分析しかつ、「隠された四本目の矢」をあぶり出すものである。四本目の矢というのは、ズバリ、憲法改正である。

 氏に言わせると、自民党内の右派、中曽根、小泉、安倍。リベラルは、田中角栄、池田勇人、大平正芳である。そして、小泉は、戦術上「靖国参拝を利用した」。しかし、安倍は、「心から靖国に祀られているA級戦犯を尊敬している」。そういう右翼の年寄りは、どんどん死んでいくが、だが、大丈夫、ネット界、出版界には、新しい右翼が育っている(合掌)。

 いま、2014年12月14日の、衆議院選挙の投票が、終わったところであるが、いったい、どーなるんでしょーかね〜? これからの日本は。なお、日本の株式市場は、特異なもので、海外投資家の戦場であるようだ。それによって株価が上がったり下がったりする。べつに政権の政策とは、ずっと以前から、関係ないそうである。





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『現代詩手帖 2019年6月号』──読むところがない(笑)(★) [Amazonレビュー]

  毎年年末は、アンケートと「住所禄」の号であったが、それを、年度の半ばでやってしまっているとは、よほどネタがないのだろう。ネタなど、ふだん問題意識を持っていれば、いくらでも浮かぶものだが、この編集部は、いかにして、推定300人程度の「読者」(含む執筆者)を管理するか、金を引き出すか、権威を形成するかに腐心しているから、まったく「詩」については、アンケート以外のコンテンツが思い浮かばず、しかも、その「問い」が、「現代詩手帖とのはじめての出会いは?」とか、「現代詩手帖」に関するものばかりで、何十周年特別号だからあたりまえといえばあたりまえだが、それにしても、もう少し芸がありそうなものだが。このアンケートは、いつもより、「たくさん」書けるようになっていて、答える人々は、うっとりと、自伝のようなものを書き連ねている。これらの人々の名前を見ていて思いつくのは、萩原朔太郎賞、鮎川信夫授賞者たちで、これらは、後者は、この雑誌の版元である思潮社主催の賞で、前者も、おそらく、下読みに関係しているのだろう。しかも、巻頭に、朔太郎のお孫さんの、朔美氏が、「ごあいさつのことば」などを述べている。氏が管理する(?)文学館と提携して、ますます、日本の詩壇を牛耳っていこうという魂胆なのだろうか? しかし、萩原朔美氏、なにか作品あったかしら? ご母堂さまの、萩原葉子さんの「刺草の家」はおもしろく読ませていただいたけれど。たしか、東京キッドブラザースか、天井桟敷か、前衛劇に関係されてたと記憶していますが、文学作品は、どうなんでしょう? だいたい、彼らが祭り上げようとしている、萩原朔太郎自体が、それほど評価されるべき詩人かどうか。しかし、まあ、この雑誌の編集者とこの雑誌の版元の経営者は、そうしたいのだろう。しかし、日本の人口1億2000万人?で、たった300人程度の「詩人」相手は、いかにも、厳しい(笑)。断末魔の姿と見た(合掌)。誰が、こんなザッシに、1400円も払うかね?(爆)




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『誰もがそれを知っている』──差別構造を浮かび上がらせるミステリー(★★★★★) [映画レビュー]

『誰もがそれを知っている』(アスガー・ファルハディ監督、2018年、原題『TODOS LO SABEN/EVERYBODY KNOWS』)

 

 ファルハディ監督の作品を、『彼女が消えた浜辺』(2009年)『別離』(2011年)『セールスマン』(2016年)と見てきたが、本作に一番近いのは、最初に高い評価を得た、『彼女が消えた浜辺』だろう。本作の場合、できがよいとは言えない本格推理仕立てとなっているが、根底にあるのは、社会の差別構造である。私は、チェーホフの『桜の園』を思い出していた。すなわち、農奴を抱えた封建制が崩壊し、ラネーフスカヤ夫人の荘園は、農奴のロパーヒンが買っていた。そうとも知らないブルジョワ一家は、ロパーヒンと親しくつきあいながらも、農奴あがりの従僕であることになんの疑いも抱かない──。本作でも、一家の家長の父親が、葡萄農園を持って、ワイン醸造家として成功しているパコ(ハビエル・バルデム)に向かって、「おまえはうちの使用人だった」という言葉を何度も放ち、かつ、安い値段で自分の土地を買ったと言い張る。

 そんな父親の娘が、嫁ぎ先のアルゼンチンから子どもを連れて、妹の結婚式のために帰ってくる。そのラウラ(ペネロペ・クルス)はパコと幼なじみで、もと恋人同士であった。三女の結婚式の夜、ラウラの娘の16歳のイレーネが誘拐され、莫大な身代金を要求される。以前の似たような事件では、被害者の少女は殺害され、その新聞記事が、イレーネのベッドに置いてあった。ゆえに、一家は、すぐに警察に届けず、身代金を作ろうとするが、すでに一家にはブルジョワの実質はない。そこで、身分が下でも、実業家であるパコに頼ろうとする──。

 すでにタイトルに半分現れているように、ミステリーの筋書きは、ほぼ「予想通り」に進む。ここでは、派手な容貌で、派手な作品に出ていた、実際の夫婦、ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスの抑えた演技(クルスは誘拐された娘を慮って泣きわめくが、それは派手な演技とは違う)が、スペイン社会のリアルを浮かび上がらせる。しかも、すべての「一家」のキャラクターをきめ細かく描いている。ペネロペを二女に、長女、三女の、それぞれの配偶者や子どもまで。ざわざわとした大家族の、土や草、木の匂いが伝わってくる。

 映画の筋書きとして、犯人は観客に明かされるが、物語のなかでは最後まで明かされず、長女のみがうすうすと気づき、それを夫に語ろうとするところで、映画は突然幕を閉じる。哀惜を帯びた声の歌が流れようと流れまいと、ファルハディ監督のスタイルは変わらない。紋切り型のミステリーから観客を解放する。

 

 


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