【詩】「詩のわかれ」 [詩]
「詩のわかれ」
資生堂が出している『花椿』は、昔は、デパートなどの資生堂のカウンターに置いてあったが、最近は見ることもなくなった。少なくとも、福岡「ジュンク堂」にはない。それがたまたま、新しくできた、六本松421内の、ツタヤ書店に、ほかの雑誌と並べられておいてあったので、ほかの雑誌といっしょにカウンターに持って行くと、やはり「タダ」だった。
今号は、「第35回現代詩花椿賞受賞作」が、「花椿文庫」となって、綴じ込みの紙の袋に入っている。
井坂洋子さんの詩集だが、冒頭に、「書き下ろし」が、この『花椿』のために、一篇加えられている。「波」という詩だ。
きょうという日の次に
きょうという日はやってくる
打ち続くきょうという波の
寄せては返す 他愛のない
物語
すべて書き写すのは、著作権を鑑みて差し控えよう。
受賞詩集の『七月のひと房』は読んでいたが、正直、
なんとも思わなかった。選考委員の池井昌樹は、
「最古の故郷と故郷に微睡む最古の幼心、そして、それら全ての喪失感がある。ヒトの世の根源にも宿る記憶にも、その消失にさえ無自覚な『いまここ』への静かな、烈しい警鐘とも捉え、選考委全員の総意として本詩集を受賞作と決定した」と書いている。
奥付の選考経過に、「午後6時12分、受賞作を決定しました」とある。選考会は、午後2時15分に始まったとある。分刻みのタイムラインである。
おそらく、これらの詩人たちの壁の内部に、自分が入ることはないだろう。
池井昌樹は、いろいろな賞の選考委員をやっているが、すべてこのような表現で詩を測るなら、それに関与しうることもないだろう。
【詩】「げん」 [詩]
「げん」
げんちゃんは、金持ちに飼われている、「マメ柴」だという犬だ。まだ若い。
飼い主の金持ちは、七人家族、八台の監視カメラを設定していて、平日には通いのお手伝いさんがやってきて、家内の仕事の最後に、げんちゃんを散歩につれていく。お手伝いさん以外の家族が散歩に出ているのは見たことがない。お手伝いさんが来ると、げんちゃんは、まるで虐待されているかのような声を出して鳴く。「早く、早くぅ〜」と言っているのだ。
名前が「げん」と二文字なら、たいてい、「げんちゃん」と呼んでしまうが、散歩中のお手伝いさんと会って(こちらも犬連れなので)立ち話をすると、「げんは今日ワクチンの注射をしたんです」とか、呼び捨てだ。おそらく、飼い主の前では、「げんちゃん」と呼んでいると思うのだが。
このげんちゃん、前に飼われていたシェパードが三年で死んで、今度は、「元気に育つように」と、「げん」と付けられたと、これまたそのお手伝いさんによって知ったのだが、だいたい、この家はなんのために犬を飼っているのか疑問である。家屋は、四十世帯が入るうちのマンションの建物の幅とほぼ同じ幅を持ち、屋上もある二階建てで、七人家族にしても、かなり広い。しかし、この家のどこにも、マメ柴(げんちゃんは大きくなってしまったマメ柴であるが)を収容する場所はない。げんちゃんは、外で飼われている。庭の一角にげんちゃんの小屋があるようだ。その庭も、最近、フェンスで仕切られているのが、わがバルコニーから見える。お手伝いさんが来ている時、虐待されているかのように鳴いているので、私はバルコニーから「げんちゃん」と呼んだり、口笛を吹いてやる。届くかどうかはわからないけれど。
犬はどんな人間に飼われるかによって、犬生が決まってしまうので、つくづく犬にだけは生まれたくないと思う。ほかの動物も似たようなものだが。とくに、馬は見ているだけで哀れさを感じる動物だ。馬より犬の方がいいか。それは、わからない。
赤瀬川源平の撮った写真で構成された岩波ブックレットに「馬」がテーマになっているものがあって、モノレールの駅の、大井競馬場だったか、青物市場だったか、その付近に、馬の途殺場があって、そこで「順番」を待たされている馬たちの写真があった。辛くてはっきり見ることができなかった。瘏殺場への建物へ入る坂になった板の上を引っ張られてゆくとき、馬は事態を察知して激しく抵抗するという。
用途が終わって殺される馬がいいか、薄情な飼い主と長くて十数年の生を終える犬がいいか。
まあ、とにかく、自分がいっしょに生の時間を過ごすことになったわが犬には、できるかぎりの自由を与え、犬の「いいなり」になっている。私はなにがなんでも、この犬を守り通すつもりである。