【詩】「「2001年宇宙の旅」 [詩]
「2001年宇宙の旅」
ヨハン・シュトラウス2世が1867年に作曲した『美しき青きドナウ』の進行にそって、宇宙船がゆく。この曲を聴けば誰もがこの映画を思い出し、思い出せない人はご愁傷様。宇宙、未来。水飲み場を争って、「殺人」(?)まで犯してしまった「サル」は、大きな黒い直方体の物体であるモノリスに触れたときから、智恵がついて、食べ物だった獣の骨を武器に変えた。おのれの欲望を満たすには、邪魔者を消す、そして、消すためには、武器がいる──。そんな、あたりまえだと思っているイメージは、
スタンリー・キューブリックが、原作者、アーサー・C・クラークと、映画と小説「同時進行」で、映像化したのだ。この、
永久の映像化こそ
モノリスの内実だった。あれから、
18年……
われらはいまだ、モノリスを探してさまよっている。曲は、ヨハン・シュトラウスとは血縁関係のない、リヒャルト・シュトラウスが、1896年につくった交響詩『ツゥラトゥストラはかく語りき』。パンパン、パンパン。ティンパニが響く。人類の夜明け。放り投げた骨は記憶であった。
宇宙空間に浮かぶ記憶。
メモリ。それを失い
ふたたびサルとして
長い長い
類人猿期を
生きようとしている
われら
いまだ
2001年を
超えられず
2001年が
到来するのを
待つ。
【Amazonレビュー再掲】『アベノミクス批判——四本の矢を折る』 ──極右政治家(海外メディアはそう書いている)安倍晋三分析(★★★★★) [Amazonレビュー]
『批判——四本の矢を折る』(伊東 光晴 著、2014年12月14日、岩波書店刊)
伊東光晴は、『ケインズ』(岩波新書)の翻訳もあり、長きにわたる雑誌『世界』の論客であるが、それより、「岩波文化を代表する」などと形容されることもあるようだ。「岩波文化の凋落」などと、本書を批判しているレビュアーもあるが、だいたい、「岩波文化」などということ自体、歳がわかる(笑)。かつてそのようなものがあったとしても、そのようなものは、とっくに凋落していて、なにも本書には関わりがない。
まっとうな(資料を駆使して、科学的に分析するスタイルの)経済学者ではあるが、本書は、経済学ばかりの本ではない。「アベノミクス」という、知識のない庶民、あるいは、あってもテキトーな政治家向けの、便利な言葉のうさんくささを、とくに、「アベノミクスの三本の矢」(金融政策、国土強靱化政策、成長政策)という経済政策がいかに「不可能か」を実証的に分析しかつ、「隠された四本目の矢」をあぶり出すものである。四本目の矢というのは、ズバリ、憲法改正である。
氏に言わせると、自民党内の右派、中曽根、小泉、安倍。リベラルは、田中角栄、池田勇人、大平正芳である。そして、小泉は、戦術上「靖国参拝を利用した」。しかし、安倍は、「心から靖国に祀られているA級戦犯を尊敬している」。そういう右翼の年寄りは、どんどん死んでいくが、だが、大丈夫、ネット界、出版界には、新しい右翼が育っている(合掌)。
いま、2014年12月14日の、衆議院選挙の投票が、終わったところであるが、いったい、どーなるんでしょーかね〜? これからの日本は。なお、日本の株式市場は、特異なもので、海外投資家の戦場であるようだ。それによって株価が上がったり下がったりする。べつに政権の政策とは、ずっと以前から、関係ないそうである。
『現代詩手帖 2019年6月号』──読むところがない(笑)(★) [Amazonレビュー]
『誰もがそれを知っている』──差別構造を浮かび上がらせるミステリー(★★★★★) [映画レビュー]
『誰もがそれを知っている』(アスガー・ファルハディ監督、2018年、原題『TODOS LO SABEN/EVERYBODY KNOWS』)
ファルハディ監督の作品を、『彼女が消えた浜辺』(2009年)『別離』(2011年)『セールスマン』(2016年)と見てきたが、本作に一番近いのは、最初に高い評価を得た、『彼女が消えた浜辺』だろう。本作の場合、できがよいとは言えない本格推理仕立てとなっているが、根底にあるのは、社会の差別構造である。私は、チェーホフの『桜の園』を思い出していた。すなわち、農奴を抱えた封建制が崩壊し、ラネーフスカヤ夫人の荘園は、農奴のロパーヒンが買っていた。そうとも知らないブルジョワ一家は、ロパーヒンと親しくつきあいながらも、農奴あがりの従僕であることになんの疑いも抱かない──。本作でも、一家の家長の父親が、葡萄農園を持って、ワイン醸造家として成功しているパコ(ハビエル・バルデム)に向かって、「おまえはうちの使用人だった」という言葉を何度も放ち、かつ、安い値段で自分の土地を買ったと言い張る。
そんな父親の娘が、嫁ぎ先のアルゼンチンから子どもを連れて、妹の結婚式のために帰ってくる。そのラウラ(ペネロペ・クルス)はパコと幼なじみで、もと恋人同士であった。三女の結婚式の夜、ラウラの娘の16歳のイレーネが誘拐され、莫大な身代金を要求される。以前の似たような事件では、被害者の少女は殺害され、その新聞記事が、イレーネのベッドに置いてあった。ゆえに、一家は、すぐに警察に届けず、身代金を作ろうとするが、すでに一家にはブルジョワの実質はない。そこで、身分が下でも、実業家であるパコに頼ろうとする──。
すでにタイトルに半分現れているように、ミステリーの筋書きは、ほぼ「予想通り」に進む。ここでは、派手な容貌で、派手な作品に出ていた、実際の夫婦、ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスの抑えた演技(クルスは誘拐された娘を慮って泣きわめくが、それは派手な演技とは違う)が、スペイン社会のリアルを浮かび上がらせる。しかも、すべての「一家」のキャラクターをきめ細かく描いている。ペネロペを二女に、長女、三女の、それぞれの配偶者や子どもまで。ざわざわとした大家族の、土や草、木の匂いが伝わってくる。
映画の筋書きとして、犯人は観客に明かされるが、物語のなかでは最後まで明かされず、長女のみがうすうすと気づき、それを夫に語ろうとするところで、映画は突然幕を閉じる。哀惜を帯びた声の歌が流れようと流れまいと、ファルハディ監督のスタイルは変わらない。紋切り型のミステリーから観客を解放する。
【詩】「やまと魂」 [詩]
「やまと魂」
犬の散歩で通り抜ける護国神社は、
十二万柱(神の単位呼称は「柱」である)の「英霊」が祀ってあると、鳥居横の石碑に刻まれ、広大な敷地では、蚤の市や音楽祭が開かれる。ときに、黒塗りのセダンや看板をつけたトラックが並び、黒づくめの男性たちが、ヤクザの親分を待っている手下どものように、神妙な表情をして整列している。顔を見れば、皮膚がピンと張り、まだ若さの片鱗を感じさせる人もいる。もちろん年季の入った顔もある。今日も、
それほど大規模ではないが、黒く磨かれたセダンと看板付きが並び、四、五人の男性が整列しているところを通り抜けた。私はその時、頭の中に、この人々への問いが浮かんだ。
やまと魂をご存じですか?
それは、きちんとした漢語の『日本書紀』に対する、
だめな漢語の『古事記』に現れているものです。
なぜ、だめなのか?
それは、論理ずくめの外国語に向かい、
なんとか、自分たちの言葉を創り出そうとしたからです。
翻訳とは
おのれの言葉を創り出そうと格闘すること、
外国の思想でも、日本語に訳されていたら、それは、
日本の思想なのです。
それは、「置き換え」ではないのです。
精神の格闘なのです。
やまと魂という言葉を初めて使ったのは、
紫式部です。
やまと心という言葉を初めて使ったのは、
赤染衛門です。
赤染衛門の家に乳母がきて、その乳が出ないのを、
文学博士である、夫の大江匡衡(まさひら)がそれを難じて歌を詠んだ、
はかなくも思ひけるかなちもなくて博士の家の乳母(めのと)せんとは
(乳(智)も出なくて、よく博士の家の乳母をしようなどと思ったものだな)
赤染衛門返し、
さもあらばあれ山と心しかしこくはほそぢにつけてあらす許(ばかり)ぞ
(しかたありません、大和心さえ賢ければ、細い智恵(細乳)があるという理由で置いておくだけです)
やまと心、やまと魂とは、
論理を超えた、ひととしての配慮ができる、
女ことばなり。