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『希望の灯り』──アレゴリー、キレてる音楽、生への苦い希望(★★★★★) [映画レビュー]

『希望の灯り 』(トーマス・ステューバー監督、2018年、原題『IN DEN GANGEN/IN THE AISLES』)

 

 主人公の青年、クリスティアンを演じるフランツ・ロゴフスキは、『未来を乗り換えた男』でも見た。ナイーブな表現ができる二枚目なのだろうが、ハリウッドやその周辺にいる俳優と比べると、違和感がある。欧米の自由主義諸国の俳優になじんだ者にとっては、無気味さといっていい雰囲気が漂う。これは、旧東ドイツの、さらにいえば、カフカの、ハイデガーの「顔」である。ほとんど演技を感じさせない微妙な表情は、まさに、ロゴフスキの出身地のフライブルグ、ハイデガーゆかりの地であるが、「存在と無」の表情なのである(?)。そして、彼が演じる世界は、そのほとんどの場面が、原題通りの「スーパーの通路」である。それも、さすがドイツ、われわれ日本人の見知っているスーパーマーケットとはずいぶん様相が違う。巨大なのである。クリスティアンは、飲み物部門の見習いとなるが、主な仕事は、フォークリフトで飲料のカートンを天井近くの棚まで運んだり、床近い棚に手作業でカートンを置くことであるが、とりわけリフトの運転がまだうまくない。ブルーノという先輩のオジサンがいろいろ教えてくれる。このブルーノは、ドイツ統一前は、長距離トラックの運転手をしていた。

 映画の中で、ショッキングなシーンは、いわゆる「生魚」が「買われるまで」「生かされ」、飼われている、満杯の水槽である。巨大な魚たちはアップアップしている。フォークリフトの上下する音といい、さすがにカフカ(チェコの作家ではあるが、ドイツ語で書いている)とハイデガーの国である、すばらしいアレゴリーを見せる。

 スーパーの上層部は映らず(こういうところは、カフカの『城』を思わせるが)、従業員たちだけの姿を描写する。西ドイツに吸収されるように「なくなってしまった」東ドイツ。けれどずっと「そこ」に住み続ける人々はいて、まさに水槽の中の魚のようにアップアップしている。

 すばらしくキレている現代的な音楽のなかに、これらの人々が、「希望」の方へ泳いでいこうとしているところ見せる。


 


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