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【詩】「フーコー v.s. 吉本隆明」 [詩]

「フーコー v.s. 吉本隆明」

 

1978425日、来日したミシェル・フーコーと吉本隆明が対談した。その模様は、吉本の『世界認識の方法』(中央公論社)という本に収録されている。通訳は、蓮實重

 

フーコー「不幸にして吉本さんの著作は、まだフランス語にも英語にも翻訳されておりませんので、お仕事を直接読む機会には恵まれておりませんが、たぶんこの方とならば、いろいろな共通点がありはしないかと考えておりました」

 

 

吉本「マルクス主義は十九世紀的な思想のなかで、フーコーさんの言葉でいうと全体的な考古学的な配図のなかにちゃんとはまり込んでいる思想であり、べつにそれをはみだすのではないという点です。この考え方はたいへん示唆的であるし、ぼくはたいへん同感したわけですが、しかしぼくの考えでは、そのことはマルクス主義、あるいはマルクスの思想の欠陥ではなくて、美点のように思われるんです。たぶんそれは古典経済学の継承であって、これを始末していないところが、マルクス主義の、あるいはマルクス思想のいいところのなのではないでしょうか。いいかえればその点が、現在もマルクス思想にもし可能性があるとすれば、その始末していないところではないかとかんがえるのです」

 

この、「始末する」という独特の表現が気になった。この短い文章に二度も出てくる、吉本独特の表現。私はこうした表現が恥ずかしいようにも思った。はたして、フランス語では、どのように訳されているのだろう? 訳した人は、当然、蓮實重だろう。

 

フーコーの、著作以外の文章、講演、発言などを収めた、『FOUCAULT Dits et écrits , 1976-1988』(GALLIMARD )にそれが収録されているので、見ると、「始末する」は、

 

 se débarrasser

 

と、表現されている。すなわち、「厄介払いする」というイメージである。

 

そして、全体にこの対談は、完全に、吉本隆明の「負け」である。はっきりいって、オハナシにならない。しかし、フーコーは、最大限の敬意を払っている。だからといって、吉本隆明の著作が全否定されるものではない。「日本のなかにおいて」は、すぐれた思想家である。ただ、「マルクス主義」のような、世界の思想家がうんぬんしている「思想」については、どうかな。吉本が感じさせた恥ずかしさは、日本人であることの恥ずかしさであるような気がする。それは、フランス語に堪能な、通訳者、蓮實重も含めて。

 

 


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