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Gilles Deleuze "LOGIQOE DU SENS"(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』) [哲学]

Gilles Deleuze "LOGIQOE DU SENS"(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』)

 

さまざまなセリー(系とでも、訳すのか?)からルイス・キャロルの成し遂げた「意味」を考察。すなわち、「表層」であること。

 

C'est en suivant la frontière, en logeant la surface, qu'on passe    des corps à l'incorporel. Paul Valéry eut un mot profond : le plus profond, c'est la peau.

 

肉体を無形にする、すなわち、境界に沿っていくこと、表面に留まること。ポール・ヴァレリーの深い言葉:最も深いもの、それは表層である。

 

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「枯れかけた花」 [絵画]

「枯れかけた花」

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『告白小説、その結末 』──メタ・フィクションの失敗作(★) [映画レビュー]

『告白小説、その結末』(2017年、ロマン・ポランスキー監督、原題『D'APRES UNE HISTOIRE VRAIE/BASED ON A TRUE STORY』)

 

 原作の題名は、直訳すれば、「事実に基づいて」(名詞ではない)であり、d'apresは、「〜基づく」である。それが終盤、Apres d une histoire vraie と置き換えられ、訳せば、「事実に基づいた作品ののち」。それが、作家デルフィーヌの「次回作」であり、そのサイン会でこの映画は終わる。

 つまりこの作は、作家のサイン会にはじまり、サイン会に終わり、その間の時間は、作家のスランプである。その間に登場するのが、エヴァ・グリーン扮する、愛読者にして、職業ゴーストライターにして……である。この女が、作家デルフィーヌに近づき、彼女を支配し、彼女になりかわって新作まで書いてしまう? つまり、この女は、おそらく、スランプに陥った作家の、もうひとりの自分であり、それはそのまま、「事実に基づいた」作品の「内容」であり、「その後」(第二作)なのである──ってことをポランスキーは言いたかったのか?

 

 だが本作はそういうメタ・フィクションが成功していない。まずは、エヴァ・グリーンが登場した時の顔に、「私はあなたが生んだ想像の産物」と書いてある(笑)。38歳のエヴァ・グリーンと、52歳のエマニュエル・セニエを比較して、美醜を言ってもしょうがない。グリーンは、完璧なフルメイク、一方、セニエはすっぴんに近いと思われる。それより、私には、『毛皮のヴィーナス』でどぎつい化粧で毒づいていたセニエが、おとなしい感じで出ていたのはちょっと驚いた。しかも、しゃべり方は、イザベル・ユペールを思わせる。年齢はユペール64歳? ほぼ(日本でいう)「ひとまわり」ずつ違う、この三人を出して、あれこれやらしたら面白かったかもしれない。しかし、ユペールは、ポランスキーの映画には出ないだろう。相変わらずセニエをイジるしかない(笑)。悪い女優ではない。しかも、ポランスキーにかなり鍛えられた感あり。

 

 この作品のかなめとなる存在、「エル」(彼女とも解釈できる。安易なネーミングではあるが(笑))を演じる、エヴァ・グリーンの顔がどうもすきになれない。美女かなんか知らんが、麻生太郎のように顔相が悪すぎる(爆)。だから、この作品は、彼女に配役した時点で大失敗の坂を真っ逆さまに落ちていくしかなかったのである。


 


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「映画『パンク侍、斬られて候』における、脚本宮藤官九郎のお手柄」 [映画分析]

 宮藤官九郎が属する劇団「大人計画」には二種の芝居があり、リーダーの松尾スズキ作・演出のものと、松尾が見出した役者だった、宮藤官九郎(クドカン)が作・演出の芝居と。後者の方がキレがあり、笑える率も高いのだが、どちらの芝居にも二人とも出ている。松尾の芝居はどこか暗く重いが、本来「大人計画」とは、松尾の芝居が基本となっている。

 

「役者」だった宮藤官九郎の才能を見出し、劇作や演出をやらせたのは松尾である。

 クドカンの芝居の特徴は、「現実に取材している」ことである。たとえば、ある芝居では、芸能界の裏話がストーリーになっていて、北島三郎邸への「新年の挨拶の様子」が、福助人形の大から極小まで、いくつものサイズを台の上に並べて説明し、北島三郎自身から近い順に、大きい人形から小さい人形へと、「北島三郎から見た大きさ」になっていて、部屋の入り口付近の人間は、家のあるじの北島からは、小さくしか見えない(笑)。こんなどうでもいいようなディテールがけっこうリアルで、これは、職業柄、実際に聞いたり見たりしたことを織り込んでいるなということがわかり、それが彼の脚本などの人気ではないかと思われる。

 今回、映画『パンク侍、斬られて候』で、脚本「だけ」を担当したのだが、町田康の原作を読むと、たしかに、「腹ふり病」(「お伊勢参り」のような一種の「憑き」状態で、民衆が狂信的に腹を出して踊り出す。その「思想」は、この世界はサナダムシの体内にあり、どんな希望も叶わない。そのサナダムシの肛門から出ていくことが救いであると信じ、両腕を左右平行に伸ばして腹を揺すって踊りまくる)などが出てくるのだが、ただ平板に書き流されているだけである。この十数年前の連載小説(マガジンハウス系雑誌)を、「今の人々の精神状態」に転化させて表現しているのがクドカンの手柄と言えるだろう。

 考えてみれば、いるいる……である(笑)。「腹ふり病」にかかった人々……そして、彼らの蔓延によって世界は滅びていく──。

 そう、あのヒトも、このヒトも……。クドカンの脚本のおかげで、いまの世界をまんま描いてしまった映画ではあったナと思う。ただ、監督がどこまでそれを理解していたのかは、疑問であるが。


 


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『パンク侍、斬られて候』──おバカ映画に徹しきれない凡作(★★) [映画レビュー]

『パンク侍、斬られて候 』(2018年、石井岳龍監督)

 

 どうせ「アンアン」かなんかに十数年前に連載したパンクなんでせう? あの時代パンクでも今はどーよ? 連載小説は、とにかく「書き上げることができる」、このおかげで、かろうじて作品になっている「時代小説」?って言ったら、まともな考証やってる時代小説家が怒るし、ま〜、しいていえば、小島信夫の「別れる理由」みたいなだらだら純文学ぅ〜って言ったら、ほめすぎ〜(爆)? 少なくとも、角川文庫版で、エラソーな解説書いている、高橋源一郎の小説よりは、まともな小説ではある。

 

 しかし、このまま映画化したんじゃ、本作のように、どこか飛んだ感じにはならないだろう。そこには、脚本の宮藤官九郎の「才能」が関与している。なるほど、ほとんど「原作そのまま」で、ゆえに、スジが紋切り型なんだけど。

 それと、スターをふんだんに使ったおバカ映画にしているところが魅力なんだけど、完全なるおバカになっていないところが、ま〜演出(監督)の凡庸さですな〜。

 ただ、「茶山さま」の半裸白塗り、妙にスタイル日本人離れ、は、誰かしら? と最後のクレジット見るまでわからなかった。知って感心(笑)。一方の家老を演じる、トヨエツも、そうだとはわからなかった。というのも、それほどこの俳優を見てないからだと思う。アメリカ俳優の誰かに似ていると思った。ウィンクがかわいい。あと、名前を聞いたことがない俳優で、個性的な役を演じているのは、「どうせ『大人計画』」の俳優だろう(笑)。

 

 主役の綾野剛、「もう終わり」というレビュアーもいたが、確かにもう終わりなのかもしれないが、この役は、なかなかセクシーだった。だいたいセクシーな俳優である。けっこー、見惚れたぞ〜。

 しかし、紋切り型へ導かれるラストは、せっかくのクドカンの世界を台なしにしている。クドカンはオリジナルでは、こういうスジは書かないだろう。この点、外せなかったのか? 『パンク侍、斬られて候』っていう題名はいい。だが、実際は「斬られてない」(笑)。女に竹べらで肝臓あたりを「刺されて」死ぬ。それも最初に殺した老人の娘だった女の仇討ち。つまらん。





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短歌@20180701 [短歌]

       


 


                日いづるもおなじ海でもアテネゐる


               トロヤの浜に春はたつらむ?












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