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『ライ麦畑で出会ったら』──今さらサリンジャーでもないが(★★★)

『ライ麦畑で出会ったら』( ジェームズ・サドウィズ監督、2015年、原題『COMING THROUGH THE RYE』)

 

 2015年の作である。今さらサリンジャーでもないだろうが、色合いとか雰囲気はなかなか「見せる」ものはある。主人公の真面目さもよいし。しかし、サリンジャーって、ブームにはなったが、それほどの作家だろうかというのもある。作中、『ライ麦畑で捕まえて』の登場人物の名前があたりまえのように出てきて、サリンジャーはシェークスピアじゃないだろー?(笑)って感じだ。

 サリンジャー探しはいいが、期待したほど「文学的」でないのが残念である。結局、クリス・クーパー(唯一の有名俳優)分するサリンジャーも、姿は似せているのかもしれないが、人物的魅力がなく、焦点がボケたものになっている。それでも、この時代(1969年)をリアルに描いてはいる。こういうさりげない誠実さには好感が持てるのだが。映像は美しく、音楽も抑え気味のノスタルジーが現代との絆を保っている。

 

 


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『デス・ウィッシュ』──クールガイに髪は要らない!(笑)(★★★★★) [映画レビュー]

『デス・ウィッシュ』(イーライ・ロス監督、2018年、原題『DEATH WISH』)

 

 リメーク版のもとになったという、チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』は観ていないが、いずれ、家族を殺された男の復讐劇なのだろう。しかし、「オリジナル」がどうあれ、主役をブルース・ウィルスがやるとなると、内容がまったく違ったものとなる。なによりウィルスには、身についたクールさ、軽さ、ユーモア、やさしさのようなものがあって、それが物語を規定する。それは、音楽活動もしている彼の歌にも反映している。だから、ウィルスがハードボイルドをやるとなると、何が何でも駆けつけねばならない。

 今回は、犯罪多発都市シカゴのERの外科医で、次々に運ばれてくる患者の応急処置をみごとにさばいている。患者の中には、犯人に銃で撃たれた被害者もいれば、加害者もいる。そのどちらも公平に延命措置をし、最善を尽くす。これが映画のキーポイントとなってうまく使われている。

 ひょんなことから家の情報が漏れて、ウィルスの留守中に強盗に入られ、妻を殺され、娘は命は取り留めたものの、意識が戻らない状態で病院にいる。担当刑事は良心的だが、頼りにならない。それで、「処刑人」に変身する。このあたりは、最近作では、娘を殺されて、独自に犯人を探す「スリービリボード」の状況と似ているのだが、ああいう陰湿かつ絶望的でしかも作り物めいた展開ではなく、ウィリスはここでも「ダイハード」のユーモアを漂わせ、犯人を追いつめていく。銃に関する情報もたくさん盛り込まれ、銃器店で、「はじめてのガン」を買う時はどうするかが、よくわかる。当然「登録」が必要なのだが、物語はこれも伏線にしてみごとなカタルシスに結び付けている。つまり、処刑するときは、「行きずりのように」手に入れたガンを使い、娘の意識が戻り、無事退院した時、はじめて、ガンを正式に買いに行く。そのガンが使われるのは、真犯人が復讐に訪れた時、「正当防衛」の武器としてのみである。

 つまり、今回の設定は、「銃には慣れていない」人間なのだが、外科医として身につけた「細心さ」が「武器」なのである。

 本作は、銃規制の動きに反対しているかのように見えるが、結局、ウィルスが銃には慣れていない人間を演じることによって、大手を振って賛成しているわけでもなく、かつ、銃社会の犠牲による悲劇が発端になっているので、銃に対する慎重さの必要性を主張する側にも立っていると言える。

 

 

 

 

 


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【詩】「復元」 [詩]

「復元」

 

ドナルド・キーン氏には、吉田健一もそう書いているが、私も日本文学について多くのことを教わった。とりわけ氏の、ケンブリッジかオックスフォードでの修士論文? 近松門左衛門については。氏は、日本語の古語のテキストも深く読み取る力を持ちながら、「文学史」は、英文で書かれている。われわれ日本の読者は、その訳を読むわけである。訳者と一体となって日本語訳のテキストを作ることができただろう。そんな氏が、日本の日記文学の特殊性を取り上げた『百代の過客』。そのなかに、定家の日記、「明月記」に関する分析もある。そこで私は少し引っかかってしまった。氏曰わく、「なぜこの日記は日本語に訳されないのか?」え? これって、日本語では? 定家の日記は、漢文であるが、和漢文なのである。決して、中国語ではない。ゆえに、読み下し文にされたところで、それほど意味があるものとは思えない。むしろ、その順序のまま、ひとつの漢字が意味するところを知ることである。それには、漢和辞典をまめに引くしかない。そうやって小林秀雄は、本居宣長を読んだのである。漢籍といえば、日本人が最初に読んだ書物は、論語である。つまり外国語であった。日本には、文字がなかった。そんなことなど、言わずもがなのキーン氏であろう。そして、もうひとつ引っかかるのは、すべての日記がなにか、私的な物思いを書きつけるものと思い込んでいるふしが見られることである。藤原道長には、「関白日記」があるが、これなどは、当時の貴族の男性の、ほとんど義務のようであった、記録である。それは、定家の「明月記」にも繫がっているのではないか? ゆえに、天候からはじまり、装束がどうの、何人集まって女房がどうのと、貴族社会の慣習を延々書きつけたのではないか? 60年間も。その60年間は、たった3巻の日記となっている──。

 

ただ、続いてしまった。

すでに元素に帰して激しい人物。

復元とは、見切り発車のまたの名。

すでに朽ちた夢の水脈のなかを泳ぐ、

名前のない魚。ポセイドンはけふ、

どんな魚に恩赦を与えようか、思案中。

雨、降るなら降れ。星、燃え尽きるなら燃え尽きよ。幾度も、

名前のなかに蘇る男。

 

ひさかたのなかなる河のうかひ舟いかにちぎりてやみをまつらん

 

建仁元年七月、1201年、正四位下行左近衛権少将兼安芸権介臣藤原朝臣定家、38歳。

 

「絹の靴下はあたしをだめにする」


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日曜日の秋ランチ [料理]

日曜日の秋ランチ。

 

きのこ(しいたけとまいたけ(まいたけは、ポルチーニのような匂いと味わい))と生クリームのパスタ、野菜ストックの野菜スープ(玉ねぎ、ニンジン、インゲン、カボチャ、キャベツ、ブロッコリ、ミニトマト、ベーコン、ウィンナソーセージ)、水菜とりんごのサラダ、果物(オレンジとバナナ)、和梨のジュース(生協)、コーヒー(オレンジに合う、スタバのケニア)。

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【詩】「定家2」 [詩]

「定家2」

 

The Tarahumara Indians have come down,

sign of a hard year

and a poor harvest in the mountains.

 

Naked and tanned,

hard in their daubed lustrous skins,

blackened with wind and sun, they enliven

the streets of Chihuahua,

slow and suspicious,

all the springs of fear coiled,

like meek panthers.*

 

タラフマラ・インディアンが降りてきた、

厳しい年のしるしだ

そして山は凶作の

 

裸で日焼けした、

泥を塗りたくった輝く皮膚は強靱で、

風と太陽に晒されて黒ずんでいる、彼らは活気づかせる

チワワの通りを、

ゆっくりと用心深く、恐怖で巻かれた全身のバネ、

のっそり歩くヒョウのように。

 

1977年に出た『大江健三郎全作品第二期 Ⅰ』の、巻末エッセイ「詩が多様に喚起する=わが猶予期間(モラトリアム)3」に、紹介されている、オクタヴィオ・パス編集、サミュエル・ベケット訳の、『メキシコ詩、アンソロジー』、私も入手していま、集中最も「新しい」詩人、アルフォンソ・レイェスの、「タラフマラ・ハーブ」という詩を訳してみた。これは、ベケットの英語を訳しているのだ。若い、トリニティ・カレッジを出たばかりのベケット。このエッセイが書かれた頃、1889年生まれのレイェスは、存命であった。生まれた年が、死んだ年で閉じられていない。しかし、いくらなんでももう死んでいるだろう。129歳になるのだから。

大江氏は、散文でのみ、この詩を紹介し、数行の引用はあるものの、たった一行も訳していない。それは、

散文家の「偽短歌」(大江の言葉)へのみっともなさの轍を自身も踏むまいとしたのだろうか。その点、太宰治は、自殺のさいにも、そういうみっともなさは、踏まず、辞世として伊藤左千夫の歌を残したと、褒めている。そして、みっともない自作の辞世を残した三島由紀夫を軽蔑している。

定家よ、自分の散文家などと驕るつもりもない、ブログやってる一般人の私には、ノーベル賞受賞文学者となんの関係もないだろうから、ここはひとつ、みっともない偽短歌を作ってみようと思う。

 

 メキシコの草葉の露もよく知らずすぐる月日ぞ老いらくの恋

 

大江氏は、略奪者のスペイン人が付けた、ネイティブ民族の名前、Tarahumara(タラフマラ)を、タフマラと書いている。氏なりの考えがあってのことか? エッセイ中、何度も書いている。そうと信じているようだ。いずれ、当時の読者で、「それはちがう!」という者はいないだろうし、版元の新潮社の編集者も校閲者も、気づかなかったに違いない。ネットがなかったから、調べるといっても容易ではなかったに違いない。第一、この詩が載っている原書も、編集者は見ていなかったに違いない。

このエッセイを読んだ時から、私は深く心惹かれ、(たぶん)Amazonで、原書を入手した。ありがたいことに、ブログやってる一般人にも、ある程度の資料を入手できる。しかしながら、

ネットを敬遠している文学者、創作家はけっこういると思われる。検索ぐらいはするかもしれないが、ネットの外で、文学活動をしている。ネットは軽薄なイメージがある。有象無象がひしめき合っているイメージ。りっぱな人のすぐ隣りにバカがエラソーな顔をしている。しかしまあ、われわれは、そういう時代を迎えているということだ。それが知的に意味のあることかどうか、知らない。

平安から鎌倉にかけての貴族男子は、漢文で日記を書いたものだ。それは、日々の感慨というより、記録である。それは貴族男子の仕事である。

 

アモーレ、アモーレ。

 

 

*****

 

* Alfonso Reyes (1889ー ), Tarahumara Herbs, "MEXICAN POETRY An Anthology" Compiled by OCTAVIO PAZ, Translated by SAMUEL BECKETT "(GRVE PRESSE, INC/New York)

 

Special thanks to Kurage for the picture


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【詩】「定家」 [詩]

「定家」

 

Chante, déesse, la colère d'Achille, le fils  de Pélée ; détestable colère, qui aux Achéens  valut des souffrrances sans nombre et jeta en pâture à Hadès tant d'âme fières de héros, tandis que de ces héros mêmes elle faisait la proie des chiens et de tous les oiseaux du ciel ___pour l'achèvement du dessein de Zeus. Pars du jour où une querelle tout d'abord divisa le fils d'Atrée, protecteur de son peuple, et le divin Achille.*

 

歌ってくれ、女神よ、アキレウスの怒りを、ペレウスの息子の、どうしようもない怒りを、アテネにて、永遠に匹敵する苦しみ、ハデスへの糧として投げ与えた、誇り高き英雄の魂を、これらの英雄たち自身を、犬や空のすべての鳥たちの餌食として与えた──ゼウスの計画を完成させるために。まずはある諍いの日から歌い始めよ、アトレウスの息子、人民の庇護者(アガメムノン)と神々しいアキレウスとを分かった諍いの日から。

 

マラルメの牧歌、ヴァレリーの海、アポリネールの領域、ヴェルレーヌの墓碑銘、ランボーの声、ミショーのペン先、ボードレールの散文……すべてすべて、おフランス的なものを歌いたまえ。そして、浪花節や歌謡曲を嗤いたまえ。三波春夫や都はるみを、法善寺横丁で願かけながら、嗤いたまえ。葡萄酒色の海をゆく、ホメロスよ、赤穂浪士に助っ人すべきかどうか迷っている俵星玄蕃に声かけたまえ。

 

4260首の歌の森をわれはゆく。青白き頬を晒し。われはゆく。戦乱の海を。こまとめて、こまとめて、こまとめて。ばにくやのぞくかげもなし。佐野のわたりの雪の夕暮。

 

アキレウス。ただひとり、死すべき運命の男。ホメロスは、その運命の輝かしさを歌う。死すべき運命の美しさを。

 

さて、おれはなにを歌うか。今日も律儀に書き留める、貴族生活の無風の、無意味の、無残さを歌うか。それとも、のちの世まで生き残る、詩というものを。

 

「今日からは赤い爪をあなたに見せない」

「ベアトリーチェ、まだねんねかい?」

「そうよ、私は蠍座の女、お気のすむまで嗤うがいいわ」

 

つねならぬ世はうき物といひいひてげにかなしきを今やしるらん

 

*****

*"HOMERE" IIiade Chants a Ⅷ(Les Belles Lettres 1998

Special thanks to Kurage for the picture.

 

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十月の花 [ライフスタイル]

十月の花。黒いダリアと秋のグリーン・ミックス(青山フラワーマーケットで購入)。

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栗おこわの献立 [料理]

ちょっと前の晩ご飯。

栗おこわ(「ご飯」ではなく、餅米を使った「おこわ」)、ぶえん鰹の刺身と野菜(たれはにんにく入りの自家製)これらの組み合わせは、栗原はるみさんのレシピ、味噌汁(油揚、小松菜、赤味噌)、Amazonのレビュー品(笑)のフランス産スパークリングワイン(シャンパーニュよりかろやかで、和食に合う)。

 

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『日日是好日 』──お茶を習うということ(★★★) [映画レビュー]

『日日是好日』(大森立嗣監督、2018年)

 

 映画に刺激を求める人には完全に向いてない映画。物語は起こりそうでおこらない。あるのは、黒木華の、のっぺり顔のアップのみ。樹木希林も役不足のように思える。しかし、私もかつてお茶を、高校の先輩から習っていたが、この通りなのである(笑)。人生いろいろな事が起こっても、すべて、お茶の道が吸収していく。波風を抑える。作法に沿って茶を点てるのみ。春夏秋冬、暦の分け方は、むしろ古来中国によるのではないか? 昔NHKテレビの茶道教室を見ていて、なんとか千家の家元が出ていて、先代が愛した花器、って、ただの木の根っこだったのにはあんぐり。そーゆー世界である。脚本もイマイチ。水の音だの雨の音だのも、わざとらしいというか、べつにお茶を習わなくても感性が鋭敏ならそのように受けとめるだろう。主人公は、両親の家から大学へ通うなに不自由ない大学生。そして、なんとなく、おわりは、20年後? 樹木希林の台詞も、お茶の先生まんまの台詞がほとんど。なにが面白いのか? こんな映画。Yahoo!

レビューはまるでヤラセであるかのような高得点ばかり。

 ……しかし、お茶の世界というか、精神って、こんなもんかもしれない。そして、どんな日も一日として同じ日はなく、辛い時も、酷暑も、酷寒も、日々是好日。そう感じることが茶道の精神と見た。いまは、どんな家元も集金に忙しいのかもしれないが(笑)。

 映画にする必要もない内容かもしれないが、映画でないと、私は改めて考え直すことはなかった。

 ご無沙汰である、茶道の師であった先輩に一筆書き、かつ、お茶でも点ててみるか。




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【詩】「吹雪」 [詩]

「吹雪」

 

なるほど都は唐をまねても、政治機構はまったくちがう。日本の12世紀といえば、源頼朝などの武士が力を持ってくるのであるが、京の都では、相変わらず門閥貴族どもが右往左往していて、オレもそんな日常を送っていた。やれ誰それが正何位に叙せられたとか。どんな装束で殿上したかとか。オレの日記はそんなことで埋められている。西洋では十字軍とかマグナ・カルタの時代だな、オレらは、和歌を制作するのに懸命だった。まー、平和なクニだなー。だってマネている唐って、8〜9世紀のクニだぜ。12世紀に、8〜9世紀のクニをまねていたんだ。そして、科挙制度は全然取り入れなくて、門閥でぐちゃぐちゃやっているうちに、平家は亡んで、暴力で支配する武士の時代になっていく──。そんなクニの文人たちが、白楽天を愛読する。

 

漢皇重色思傾國

御宇多年救不得

 

806年、白居易が「長恨歌」を作らなかったら、楊貴妃は映画にもならなかった。詩人が世界を動かしていた国。

 

そしてオレたちはそんな昔の作品を崇めて、門閥に悶絶しておったんだ。

 

承元元年、1207年、正月一日、丁丑、立春、天晴雪霏々、すなわち、吹雪。

新年の挨拶に人々集まり、装束など細かに記す、

 

翌月、土御門帝は、民衆の力を抑えるため、専修念仏の親鸞を越後に流す。

 

冬はたゞ飛鳥の里のたびまくらお(を)きてやいなん秋のしら露


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