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松浦寿輝詩集『秘苑にて』──もはや授ける賞がない(笑) [Book]

松浦寿輝詩集『秘苑にて』(2018年11月25日、書肆山田刊)

 

私が「邪推」したところ、書肆山田という出版社は、かつては、どこか大手で活躍していた編集者(集英社とか)が関わり(社主かどうかは知らない。たぶん、あとになって、ということかもしれない)、詩人の間では、自費出版の会社のひとつと思われているが、ある詩人たちは、「企画」ものではないか。誰が「企画」で、誰が「自費出版」かは、並んだ詩集のリスト(しおり)を見て、勝手に想像するしかないが(笑)。少なくとも、「企画」の最右翼はこのヒト。同じ会社から出たばかり(Amazonでは消えている(笑))の、細田傳造の詩集とは、かなり違った、細緻な作りである。こういう「有名人」で会社の格を維持し、有象無象のアマチュア詩人の自費出版で収入を得るのではないか?

そんな「背景」を考えつつ、たった今生協から届いた(e-honで、5%オフ(爆))ばかりの本書を開いて、「こら、すぐ書かナ〜」と思ったしだいである。

まず、ページを開くと、「割符」。

 

 そこにはいるために必要なのは

 傷を負った無意識と

 蛋白石の艶をおびた比喩

 

これは、「秘苑」に入るための入り口である。なにげなく、ダンテ『神曲』の「この門をくぐるためにはあらゆる希望を捨てよ」を思い出すが、ここで、すでに、ダンテには、はるかに及ばない。

 

次の詩は、「密猟」と来れば、目次だけ、「物語」=詩集の世界を想像でき、三十年にわたる「自身のもの思い」のようだが、まー、どうぞご勝手に世界である(笑)。著者には、そのへんの、賞を狙って、あっちへぺこぺこ、こっちへぺこぺこの、「アマチュア詩人」には手の届かない筆力と、教養があり、べつにダンテには手が届かなくても、痛痒は感じないのである。

 

このヒトを超えていくにはどうするか、であるが、新しさを求める以外にないように思う。では、その、新しさとは? それは、いろいろな意味での新しさがあり、ま、私なんか、それを模索中である(笑)。

 

私が二十代前半の頃の同人誌ですれ違った、上手宰(71歳くらい)の詩人にも賞の光があたってしまい(笑)、なんでも長くやってれば、それなりのいいこともあるのかな、であるが(上手氏は、どこかで、誰かわからない(笑)ブログをやられているようである)、それにしても、松浦寿輝は、上手の三十年先を行っているのだがな、年は7歳くらい下だが、ぬあんて思ってみたり、こと、幻にもせよ、「詩壇」なるものがあるとして、おそらく不本意ではあろうが、松浦寿輝を頂点とする世界は、平成とともに終わってほしいと思うのである(笑)。

 

とは、いうものの、本書は、その値段、2800円に値する詩集ではある。「値段に値する詩集」というのは、唯一、といっていいのではないか? まー、プロのお仕事ですね。そして、「アマチュア詩人」の方々は、こういう詩集を購入して、研究されたらいいと思いますよ。自分もそのつもりで購入しましたが。

 

 最終詩篇。

 

 そこから出るために必要なのは

 傷が癒えたと錯覚しうるまでにかかる歳月と

 水にほとびた乱数表の断片

 

 

とくに、最終行、なにやら、思わせぶりっこだナ。序詩の最終行(「蛋白石の艶をおびた比喩」)同様。「蛋白石」って、どんな石なんですか? しかし、こういうふうに、イミフな行を、一行だけ滑り込ませると、詩としては、なんかすごく「そそられる」。そういうテクは見習ってもいいのではないか? おそらく、完全無欠に見える、松浦に欠けているのは、「俗」なのではないか。それは、決して、侮ってはいけないものなのではないか。なぜなら、それが、生の本質であるかもしれないからである。


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5月5日は海へ [写真]

福浜の海。


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『ドント・ウォーリー』──ハンサムであることで救われる人生がある(笑)(★★★) [映画レビュー]

『ドント・ウォーリー 』(ガス・ヴァン・サント監督、2018年、原題『DON'T WORRY, HE WON'T GET FAR ON FOOT』)

 

 もともとは、『グッドウィル・ハンティング』撮影時に、ロビン・ウィリアムズが映画化を望んだ作品で、監督としては、彼の意志を完成させた。クレジットにも、「ロビン・ウィリアムズに感謝」とあった。ヴァン・サント監督は、本編の主役のホアキン・フェニックスの兄、リバー・フェニックス主演の『マイ・プライベート・アイダホ』も撮っていて、本編の主役の実在の風刺漫画家、ジョン・キャラハン役は、自然と、ホアキンへと繫がっていったのか。もともとアル中で、知人運転の車の助手席に乗っていて、その知人も酔っていて、居眠り運転で電柱に激突、大破した。同乗のホアキンは、脊髄損傷等、下半身麻痺は生涯続くことを「保証」され、一方、運転の知人は、かすり傷で、どこかへ姿を消してしまう。

 アルコール依存症のセラピーグループが中心となるストーリーだが、そのセラピーグループが一風変わっているのは、金持ちの青年の私設グループなのだ。彼の豪邸へ、アルコール依存症の男女が集まって、自分の話をそれぞれする。そのセラピー主宰者の青年が、すばらしく美しい顔をしていて、それが、いつもデブ、眼鏡の印象のある、ジョナ・ヒルであることは眼を疑う。もともと美青年だったのだ。ただし、体型は相変わらずずんぐりしているが。続いて、事故を起こした知人に、ジャック・ブラックが扮していて、その調子のよさがなんとも味わい深い、という褒め方もヘンだが(笑)。車椅子のホアキンをナマの男として見てくれる、天使のような女性に、ルーニー・マーラ。まったく、役者は勢揃いなのであるが。しかし、なにか、隔靴掻痒なものを感じる。ホアキンがハンサムすぎる。しかし、最後に出た、ホンモノのジョン・キャラハンの写真もハンサムであったから、やはりハンサムで悪いことはなかったのか。普通、ここまでの重度のアルコール依存症になった人間に、未来はない(自動車事故で半身不随になる前も後も、主人公はアルコール依存から抜け出せない)。だらだらと、「介護」の世話になり続けるだけだ。つまり……ハンサムであることによって、救われる人生がある……と、私なんか皮肉にも見た(笑)。

 

 


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【詩】「シニフィエ、シニフィアン、ジャパニーズ・ダイアナ・ロス」 [詩]

「シニフィエ、シニフィアン、ジャパニーズ・ダイアナ・ロス」

 

「シニフィエというのは音、シニフィアンというのは意味です」と、井筒俊彦は、高野山での、「言語哲学としての真言」という講演で言っている。シンプルなことなのである。しかし、これを、しち難しい内容にしているのは、西洋哲学からの論理、ソシュール、ラカン等の「著書」であり、それらの翻訳をなまかじってしまったヤカラ(プロ、アマ不問)なのである。そしてまるでX線を通すように、日本古来を研究した柳田国男のテクストに、妙な思考を通していくとは、勘違いも甚だしい。ソシュールが考えたことなどは、とうに空海が考えていた。その教えを伝えているのが真言密教である。しかし──真言密教もありがたいものかもしれないが、私にはそれほど関係ないのである。というのも、この226事件の日付に、父を失い、その葬式を「神葬祭」で行ったからである。いわゆる「神道」を、ほんとうは、神葬祭というと、柳田自身が、『故郷七十年』で書いている(柳田の父は途中から神主になった人で、「神道」も途中からようであるが、山下家も仏教からの転向者であった)。そして、聖書の死者を送る言葉が、その神父神父が独自に選んでいいように(バチカンに留学した神父に聞いた)、ノリトも、その死に際して、個人個人、作られるべきだと柳田は主張し、亡父のためにノリトを作っている。よって、こないだ、父の葬式(家族葬)の時にも、神主は、あらかじめ弟が書いていた父の経歴を読み上げていた。まあ、それは、「いいとこどり」の経歴であるが(笑)。しかしうちは、ずっと神道を信仰していたわけではなく、父母が結婚して住み始めた近所のオススメで、霊友会という仏教の新興宗教を信心していて、母はその仏壇に向かっていまだにお経(お題目は、南無妙法蓮華経である)をあげ、神道の五十日祭が終わり、祭壇も片づけられ、父の位牌は、その仏壇に吸収された(笑)。自然が、遠州の森が、父の死のシニフィエを歌えば、マック・ザ・ナイフを、シナトラ並に歌う、ジャパニーズ・ダイアナ・ロス、弘田三枝子、まだ十代のミコちゃんが、合いの手を入れ、そして、宇宙には、シニフィアン、意味の雨が降る。思えば、西洋知性が創り上げた言語の向こうに、かぎりないことばの海がひろがり、エントロピーもブラックホールも、重力の虹も、そして、夢、も膨張していく。そんな……ことを、ものごころついた時、教えてくれた父だったが、いま、その個体の多くはゴミ(豊橋市の焼き場は、骨の全部を拾わせず、残りはどうなったか不明だからだ)となって、土にかえっていく──からいいか。というように、私小説のように、ワタクシを開陳しなければ、表現者としてなにごとも語れず、どこかのムラの伝説ばかり頼りにしていたのでは、ほんとうの詩ではないということで、そんなテクストでは、読んだひとは救われないということである。おのれ自身を知れ、とは、ソクラテスの思想である。



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「答えではなく、問いである」 [なんとなくエッセイ]

「答えではなく、問いである」

 

 なんか、朝日新聞に、金井美恵子センセイが、令和によせて、とかという枠で寄稿され、それがツイッターなどで、感心している人がいて、それをまた「ナイス」している人がいて、それで、ふと眼に留まって、Asahi.comまで行ったら、「そこから先は〜♪」有料でした(笑)。まー、金払ってまで読むべき文章ではないので、「引き返してきた」が(笑)。無料(タダ)で見える部分だけ読んだら、明治、大正、昭和、平成と、個人の死によって元号が変わってきたが、多くの人が元号など使ってないはずであるノノって、よく、そういう人がいますが(笑)、この場合、問われているのは、「使う習慣があるかどうか」ではない。しかも、「個人の死によって」という箇所も、どういう認識でいるのか、この人には、歴史認識(天皇制賛成、反対とかの問題では当然ない)が決定的に欠けている。なんで、こんなバーサンを「わざわざ呼んできて」記事を書かせたのか? と考えれば、まー、朝日の文化部だがなんかに、旧左翼の意識のまんまの人がいるんだろーなー、である。

 まず、改元は、べつに「個人(まあ、象徴天皇という存在も個人と考えれば、であるが)の死」によってばかりなされるわけではなく、天皇が代わるということに関せば、「死」だけではなく、今回のように、「自ら退位」して、代わることになったのであるが、天皇に関するだけでなく、どうも悪いことばかり続くから変えようという、改元理由も、明治、大正、昭和、平成以前にはある。大化の改新(645年)から、ずっと元号が使われ、その改元理由は、驚くほど種類が多い。天皇の代替わりによる改元を、「代始改元」という。一世一元制は、象徴天皇制をも確認する。

 すなわち、そういう国家形態なので、元号を使う使わないといってもそれは、問いのたてかたがお門違いなのである。もっと大胆に考えれば、改元はそのうち、バレンタインデーくらいのできごとでしかなくなって、やがて、天皇制もなくなるのかな〜? と、ここまで考えるべきである。

 歴史認識を欠いた論考は、表面だけ「なにかを斬ったつもり」のひとりよがりの観念でしかなく、まー、18歳から文筆業だけやってきて、会社などには勤めた経験皆無の、バーチャンには荷が勝ちすぎていたのかなー?ってなもんである。ひたすら妄想だけを、どっかの文芸誌に連載してればいいじゃんである(笑)。

 

 


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田村隆一自撰詩集『腐敗性物質 (講談社文芸文庫) 』──エリオットから何も学んでいない不良ジーサン(笑)(★) [Amazonレビュー]

『田村隆一自撰詩集『腐敗性物質 (講談社文芸文庫) 』文庫 ( 田村 隆一 (著), 平出 隆 (著)腐敗性物質 (講談社文芸文庫)、1997/年4月10日刊)

 

 日本の詩の歴史のようなものの、一項目に、「荒地派」などという一派があって、萩原朔太郎などでは満足できない「詩人たち」の一派で、T・S・エリオットを「原書」で、その言葉の並び方に、眼からウロコの人々であるらしいが、田村隆一もその一人と目されているが、だいたいが、当時の日本人があまり原書になじみのない状況にあったので、パクり放題の感があり、ほかの詩人の「われアルカディアにもあり」なども、W.H.Audenの、「Et in Arcadia Ego」のパクりと思われ、田村の「新年の手紙」も、Audenの「A New Year Greeting」のパクりで、しかも、行の多くが、Audenに負っているというか、肝腎のいいところは、Audenの詩句なのである。本書は「自撰詩集」ということで、さすがに、ヤバい詩篇は入っていない(笑)。当時、Audenの原書など、ほとんどの人が見たことなどなかったに違いない。というのも、今でもあまり出回っていない。

 本書に並ぶ詩も、どれも、「一見なにかありげ」で、当時の若者はシビれたかもしれないが、今、じっくり吟味するなら、「絵空事」の世界を「描写=説明」しているにすぎない。たとえば、表題作の「腐敗性物質」

 

 魂は形式

 魂が形式ならば

 蒼ざめてふるえているものはなにか

 地にかがみ耳をおおい

 眼をとじてふるえているものはなにか

 われら「時」のなかにいて

 時間から遁れられない物質

 われら変質者のごとく

 都市のあらゆる窓から侵入して

 しかも窓の外にたたずむもの

 われら独裁者のごとく

 

なにを言おうとしているのかわからないが(笑)、なにか「ものものしい世界を言葉で節米」しているようだ。

しかし、比喩として、「変質者」だの「独裁者」だの使っていても、その実質についてのリアルな考察を欠いている。「死ぬ」とか「殺す」とか、ものものしい言葉、「われら」などと共有意識を誘うような物言いも特徴的であるが、要するに、エリオットの仕事の全貌などほとんど勉強しないまま、雰囲気だけで、島崎藤村を、無意識に(笑)継承してしまっている日本人の、ちょっとかっこつけていた、当時都会のインテリにざらにいた、そういうオジサンの「詩」である。





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【詩】「ジュリアン・グラックが読めなくて」 [詩]

「ジュリアン・グラックを読めなくて」

 

なんとなく、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』を読もうとした。細かい活字の「全集」の、「Le Rivage des Syrtes』の箇所にpost itが入っていて、章題、Une Prise de commandement。そして、J'appartiens à l'une des plus vieilles d'Orsenna.で始まる。私はオルセナの最も古い一族のひとつに属している。架空の物語の始まりである。オルセナという国は、架空のものである。しばしば、このように始まる物語があるが、まったく時間の無駄である。なぜなら、その架空の国を創造する際の記述が空回りであるからだ。たとえばプルーストのように現実の記述であるなら、それはどこまでも思考を膨らませていくことができる。しかし、架空のハナシは、周到に、一々をねつ造しなければならず、思考はその作業のために滞りがちになる。文章が硬くなり、読んでいて楽しくない。ゆえに誰も、偉大な文筆家は、グラックについて書こうなどとしない。ベケットしかり、ドゥルーズしかり、クリスヴァしかり。みんな、プルーストについて書いているではないか。集英社世界文学全集の、『シルトの岸辺』の訳者は、詩人でもある、安東元雄氏である。この人が誰か知らない頃、私は現代詩手帖に投稿していて、19歳頃だったと思う。私が詩のなかで、「木枯らし紋次郎」と書いたところ、「志が低い」と安藤氏が発言したことをなぜかいつまでも覚えている。当の安藤氏にとってはなんら記憶に残らないことなのだろうが。しかしてフランス語のテキストを味わって読めるようになると、よけいに、なんで木枯らし紋次郎が「志が低い」のかわからない。おフランス語のグラックなら志が高いのか。それでますます、こうした架空の物語を一から組み立てる作家にも嫌悪を感じるしだいだ。どーでもいい。プルーストが恋しい。自由に空想を膨らめ、書きつけていった。話者は作者であってもなくても関係ない。要は、その時代に生きる筆者が生活し、思考することだ。思わせぶりな架空の国などを組み立てた言葉など読みたくない。というわけで、私は、その、極度に活字の小さな、Julien Gracq Oeuvres Complètes を閉じるのだった。



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