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志位和夫氏のツィート [政治]

<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">自民党総裁選を見ていて、この党がつくづく酷い党になったことを感じる。石破氏を応援した大臣に「辞表を出せ」と恫喝し、安倍氏は「名前を言え」と恫喝に輪をかける。「モリカケ」は聞かれたことに答えず、差別発言の議員を庇い、プーチン大統領から嘲弄されてもなお媚びへつらう。国民の力で引導を!</p>&mdash; 志位和夫 (@shiikazuo) <a href="https://twitter.com/shiikazuo/status/1042351881312333824?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年9月19日</a></blockquote> <script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> 

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『プーと大人になった僕』──「ぼくたちにはプーが必要なんだ!」(★★★★★) [映画レビュー]

『プーと大人になった僕』(マーク・フォースター監督、2018年、原題『CHRISTOPHER ROBIN』)

 

 イギリスには、有名なクマが2匹いる。パディントンとプーだ。パディントンは、1958年代に発表された児童文学作品で、プーは、1926年にA.A.ミルンによって発表された「児童小説」だ。設定ではペルーからやってきて、駅の名前がついているパディントンよりも、百エーカーの森に住む、プーの方が、仲間たちも、日常生活も、「きめ台詞」も、魅力的だ。しかしながら、イギリス政府は、どうも、はしこいパディントンを「お国の代表」にしたいみたいだ。というか、ロンドンの象徴? ロンドンみやげのクマは、たいていパディントンだ。これは、プーの作家がスコットランド出身で、どうもプーの生息地はスコットランドにあるからではないかと思われる。あるいは、早くからディズニーによって買い取られたキャラであったせいか。そのディズニーがはじめて、「実写」を作った。クリストファー・ロビンは、大人になって、会社員としてこき使われているが、この役は、47歳になっても少年の顔をした、ユアン・マクレガー以外、考えられない。もしかしたら、ユアンあっての「プー実写」かもしれない。

 プーをよく見れば、どこといって特徴のない「ただのクマのぬいぐるみ」で、同じように年取ったプーは、オッサンの声だ(笑)。

 一応、良家の子息であったロビンは、当時の習慣にしたがって、学校の寄宿舎に送られる。いちばん多感な時に、クマのぬいぐるみと別れる。それは、幼年期の終わり。

 しかし、産業資本社会に生きる人間は癒しが必要で、そこで、ふたたび、プーが現れる。プーの設定は、「あまり頭がよくないクマ」。この設定が自然ですばらしい。ゆえに、変な理窟をこね、それがわれわれの心に、忘れていた幼年時代を思い出させる、いや、出現させる。

 

 ロビン「100歳になってもずっときみのことを思ってるよ」

 プー「100歳かあ……ぼくはいくつになってるんだろー?」

 ロビン「99歳だよ」

 プー「99歳かあ……」

 

 なんとはない台詞にウィットが滲む。現実と非現実の接点を描くのがテーマといえる、マーク・フォスター監督は、生き生きとした森やロンドンの街の風景のなかに、「ただのぬいぐるみ」を配し、すばらしい癒しを観客に贈ってくれた。

 


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【拙訳:『失われた時を求めて』「スワン家の方へ」から】 [拙訳]

【拙訳:『失われた時を求めて』「スワン家の方へ」から】


 


Un homme qui dort, tient en cercle autour de lui le fil des heurs, l'ordre des années et des mondes. Il les consulte d'instinct en s'éveillant et y lit en une seconde le point de la terre qu'il occupe, le temps qui s'est écoulé jusqu' à son réveil ; mais leurs rangs peuvent se mêler, se rompre.


 


眠ろうとしている者は、彼を中心に円形に回る時間のヒモを繋いでいて、それは年代や人物が順序よく並んだものだ。彼は目覚めながらそれらを本能的にはっきり見ようとし、一瞬自分が占めている地球の一点を読む、それは目覚めまでに流れた時間;しかしそのときは年代や人物の時間の順序はごちゃごちゃになり、ヒモは断ち切られる。


 


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Gallimard folio版(1988)の序文も書いている、Antoine Compagnonの註によれば、この箇所は、ベルグソンの『物質と記憶』(1896)、H.G.ウェルズの『タイムマシン』(1895)などの影響を受けている。とくに、前者についてのメモが残っている。また、プルーストの愛読書『千夜一夜物語』からのインスパイアも漂っている。


 


 


 


 


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【詩】「五十過ぎたジジイやババアが愛だの恋だのゆーな、」 [詩]

「五十過ぎたジジイやババアが愛だの恋だのゆーな、」

 

江戸時代なら完全に死んでたジーサン、バーサン、

いくら「詩」とはいえ、愛だの恋だの書かないでください、そうでなくても世界は、愛だの恋だの知らずに死んでいく子ども、赤ん坊、動物が多すぎます。

あんたの、ありもしなかった青春の日々だかなんだか、そして、ありもしない現在の妄想を抱いて、生きていくのはご自由ですけどね、あんた、そのぶよぶよの体や頭を晒して、まだ空気を吸っていくつもりですか? まあ、それもいいでしょうけど、「あまりに生産性がなさすぎます!」赤ん坊を産めるとか、そーゆーことではなくて、すでにヒットラー友の会は、あなたをリストに加えています。だからせめて、簡単なこと、愛とか恋とか書かない、言わない、妄想しない、それだけで、地球はずいぶんと澄んだ感じになります。もうあなた方には、その権利はないのです。権利ないのに、おおえばりで、そーゆーことを、せめて「詩作品」に書かないでください。詩が汚れますから。
江戸時代はですね、ほら、オジーチャン、オバーチャン、テレビの時代劇とは、まったく違うんですよ、現実は。
まず、村の住民は、お寺に管理されてました。勝手なことはできません。過去帳には、当然、差別的なことが記入されます。愛とか恋とか口走っただけで村八分になります。村八分になると、実質生きていけません。それについて本居宣長は……
長い間、そう千年以上も、普通の人は読めなかった「古事記」を読めるようにしました。そして、彼は、愛だの恋だのホザかずに、「もののあはれ」と言いました。それは、山桜の精に対する愛の告白ですが、お上に目をつけられないよう、そう、ぼかして表現しました。だから、お願いですから、最後の「平成」時代を生きるジーサン、バーサン、愛とか恋とか、詩に書かないでください。できれば、詩も書かないでください。しかし、そこまで咎めることはかわいそうですから、愛とか恋抜きの詩にしてください。……しかし、果たして、どんなテーマが残るのかしら? ってのは、ありますけどね。まー、死とか権力、宇宙などをテーマにされたら、認知予防のためにも、よいかも。

 

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合成写真:Special thanks to Kurage

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【詩】「ロブグリエ」 [詩]

「ロブグリエ」

 

外は雨が降っている。「私」は安全な場所にいる。元兵士だ。記憶が途切れている──。さあ、その先は──。白地に青い文字の、エディション・ドゥ・ミニュイの本。その、アラン・ロブグリエの小説。それから先へ進まない。どうせ、何も始まらないのだろう。どうせ、何も起こらないのだろう。どうせ、何もわからないのだろう。ただ、言葉が最終ページまで戯れていく。しかたない、もう一度取り出して読んでみるか──。外は陽が照っている。人々が目を手で覆って、道を行く。埃、それはどこから来たか? 電灯の下? ベッド? 外は雪。子どもが近づいてきてとても低い声で、「眠ってるの?」と聞く。もう一度、少し声のトーンをあげて「眠ってるの?」と聞く。この物語はフィクションであると、最初に作者のことわり。兵士の物語? ある戦争の。そうやって、221ページまでいって、突然終わる。「私の背後のすべての都市」。読者は、この「小説」から何を読み取ればいいのか? どんな「物語」を期待するのか? なにも起こらないというわけではない。ベケットの小説とちがう。あれは──。頭のなかでできあがった、長いおしゃべり。これは、塵の様子や、「窓」の外の様子を、「描写」している。描写とは? 語るとは? 時間、そう時間がだけが存在するような……いや、時間はない。空間、空間だけ存在している。ちがう。そう、言葉、言葉だけ、もっといえば、シニフィアンだけ、存在している。シニフィアンとしてのまなざし──。アラン・ロブグリエ『迷路のなかで』Alain Robbe-Grillet "Dans le labyrinthe". 次に開くのは、十年後(笑)?

 

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桃とトマトのサラダのランチ [料理]

ちょっと前のランチ。桃とトマトのサラダ、スクランブルドエッグとキャベツのバター炒め、コーンスープ(インスタント)、クルミのパン、グレープフルーツ・ジュース。




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【詩】「ロゴスの中では、無は無ではない」 [詩]

「ロゴスの中では、無は無ではない」

 

「『テクスト』の有意味性。但し、意味とはいっても、それが、ロゴス的意味でないことに注意する必要がある。ロゴス的意味、つまり、プラトン的イデア、の客観的実在は、ここでは完全に否定される。「超越的所記(シニフィエ)」、すなわち、意識を超えて、意識の彼方に、人間が意識するとしないとに関わりなく、客観的に存在し続けるような意味対象、の実在性を否定するのだ。簡単に言えば、現今の記号学にいわゆる『指示対象(レフェラン)』を、記号学的シチュエーションから排除して、その空白のなかで、一切を相対的能記(シニフィアン)と相対的所記(シニフィエ)の関係に還元してしまうのである。『指示対象』の裏打ちを奪われた『所記』は、錯綜する記号連鎖の複雑な網の目のなかで揺れ、流れる。客体的に外在する『指示対象』という確固たる足場を失った『所記』の、この揺れから、霧のように立ち昇ってくる意味。」*

 

つまり、サルトルの「無」とは、ロゴス内の無であり、それはまったく無ではないのだった。

 

おフランスの「現代思想」を気取った人間は、「シニフィアン」「シニフィエ」などと口にしてみる。その多くが、内容を理解しているとは思えない使い方だ(笑)。

 

「シニフィアン」「シニフィエ」は、記号的イマージュの、聴覚面と、概念面を言った、ソシュールが、便宜的に、創作した用語だ。

 

たとえば、月という言葉があるとして、tsukiという音は、シニフィアンであり、宇宙空間に浮かぶ天体というイメージはシニフィエである。それらを合わせたものが、月という言葉なのだが、それらの総体を表す適当な用語がないとソシュールはいう。

 

このスイスの言語学者には著書がなく、ジュネーブ大学で行った三回の講義のうちの、生徒エミール・コンスタンタンの、染みのついたよれよれのノートの講義録が本になっている。ほかの生徒のノートをも合わせ総合し、整理した本もあるが、コンスタンタンのノートは、他の生徒のノートに抜きんでて詳細であり、この原資料を、そのまま再現したものが、もっとも信頼がおけるといえる。というか、ソシュールにふさわしい、ともいえる。

 

結局、このあたりから、ロゴスの外へ出て行く哲学者が多数いて、ジャック・デリダもそのひとりだ。

 

「無」などはなく、ひたすらに、シニフィアンとシニフィエの、「恣意的な」(勝手気ままな)戯れがあるだけなのである。世界は、ではなく、生には。

 

だからおのれは、こよいも歌をつくる、せめて、おのれの生のあかしに。

 

関の戸をとりのそらねにはかれどもありあけの月は猶ぞさしける

 

夜をこめて鳥の空音にはかるともよに逢坂の関はゆるさじ (清少納言)

 

だーばーだ、だばだばだ、だばだばだ……

 

 

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* 井筒俊彦「書く──デリダのエクリチュール論に因んで」(『意味の深みへ』(岩波書店」所収)より引用

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【グランド・ゼロ@2006】 [事件]

9.11から17年経った。

 

ニューヨークの、ジャンボ機が突っ込まれたツインタワー跡地を訪れたのは、事件から5年目の2006年1月末だった。そのときは、新しい建物を建てるべく工事が行われていたがまだ更地に近かった。ひとつの街ほどの広さがあった。このフェンスには切れ目があり、そこから、さらに下方へ降りていくことができた。雨の日だったので、泥の地面に水が溜まっていた。フェンスには犠牲になった人々や、まだ行方不明の人々を探すボードが貼り付けられていた。

 

結局、建築家、安藤忠雄氏の案、「なにも建てないで空き地のまま残す」は、採用されなかった──。

この時、私は自宅でテレビのニュースを見ていて、まだツインビルには飛行機は突っ込んでなかったが、放送の最中に突っ込むのを見た。たしか、昼近い午前中だった。

しかし、ビルが崩れた落ちた原因は、衝突の衝撃ではなく、鉄骨が高温で崩れたためという、科学者の意見がある。

 

黙祷。

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【詩】「チェホフ」 [詩]

「チェホフ」

 

「木下杢太郎詩集」を繙こうとして、岡井隆の「木下杢太郎を読む日」みたいな本があることを思い出し、かつ、チェホフを思い出した。以上あげた三人の共通点は、もちろん、医者であることだ。チェホフはたしか、ヤルタ会談で有名なヤルタの出身。風光明媚なリゾート地だ。そこは、プーチンの「ユーラシアニズム」によって、無理矢理ロシアに組み込まれた場所ではないか。チェホフはかつかつロシアの作家というわけだ。それと逆方向がカントで、カントはドイツの哲学者にくくられているが、実はロシアのテリトリーの出身ではないか? そんなことを思いつつ、毎年この時期になると思い出すのは、草田男の、

 

 燭の火を煙草火としつチェホフ忌

 

だ。

 

昔は蝋燭で灯りをとった、橙色の光に満たされた部屋。それは、チェホフに似つかわしい。このヤルタ出身の医者で作家の人物に。死とは、肉体そのものをなくすこと、肉体以外のものの喪失に関係していることは、少なくとも科学的には証明されていないような気がする。肉体をなくした人々が世界に満ち、それはいつまで続くのだろう? 資本主義に食われていく貴族、夢にくわれていく精神、農奴の子孫で医者のチェホフが書いたのは、そうした喪失の物語だ。

 

 こがれさふらふ鵠(はくてう)の

 君をしのぶと文(ふみ)つくる。*

 

 

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* 木下杢太郎「古聿」より(「古聿」は、なんと、「ちよこれえと」と読む(笑))。

 

 


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『判決、ふたつの希望 』──言葉の重さ(★★★★★) [映画レビュー]

『判決、ふたつの希望 』(ジアド・ドゥエイリ監督、2017年、原題『L'INSULTE/THE INSULT』 

 

この映画では、われわれ日本人の常識とまったく違うことがあり、その事実がどんどんわれわれを引きつけていく。それは、言葉の重さである。言葉が具体的な暴力行為と同等、いやそれ以上に扱われ、それがこの「事件」を国家レベルのものへと押し上げていく。

 

 最初に誰が作った知らないが、この映画の配給会社の人か評論家かが、この映画の梗概を作るのに、「ささいや口論」から始まったとした。これはそもそも、「ささいな口論」ではない。原題を見ればわかるように、「(言葉による)侮辱」である。これが、フランスが支配する中東圏では非常に重く扱われている。刑法にも、「言葉によるひどい侮辱に対する肉体の暴力での反論は罪を問われない」ということが明記してある。これには驚いた。日本の刑法にはあり得ない。言葉という、具体的なかたちのないものに対して、法律的な規定はできない。しかし、この国ではそれは誰もが認める自明なことになっている。つまり、彼らは、生地はどこであろうと、同じアラビア語を話すアラブ人なのである。それだからこそ、レバノンは、110万人という、世界第三位の難民受け容れ国なのである。つまり、難民なくしては国は動いていかない。ゆえに、「不法労働」など問題とされない。難民は、本作のようなパレスチナ人もおれば、当今のようにシリア人もいるだろう。そして本作は、一見、異なる宗教、国家の問題と見えながら、そういう問題も必然的に浮き彫りにされるのだが、やはり、個人の、人間的な問題がテーマなのである。

 

 レバノンといえば、主人公の一人のトニーが6歳頃からずっと内戦が17年間も続き、トニーもその被害者だった──。反政府派がテロリストと化したヒズボラ(これが住民支援などをしたり、国会議員なども出しているので、問題はさらに複雑化している)の地であり、それは、20年前なら、ジョージ・クルーニーのCIA工作員が活躍する『シリアナ』などというスパイものになっているのだが、さすが当今、それはもうズレていて、いまは、複雑な国際情勢下を、あくまで心を持った人間としてどう生きるかになっている。ゆえに、もう一人の主人公のパレスチナ人の男の方が、自分がされた言葉の侮辱を相手に投げつけ、自分がした、殴るという「反応の暴力」を相手から受ける。それで「互角」にする。ここを見落としてしまったら、この映画の意味はまったわからないものになってしまうだろう。時代が進むにつれ、問題は、微妙に変わっていく。そこのところを非常にうまく描き出している。



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